イラク水滸伝/高野秀行

すっかりファンになってしまった探検家、高野秀行さんの新刊。今回は、いわゆる4大文明のうちの1つ、メソポタミア文明が起きた場所にあるゾミア的な湿地帯へ向かいます。

メソポタミア文明は文明なので都市が築かれていたわけですが、そのほど近くのチグリス川とユーフラテス川の下流域は広大な湿地帯になっていて、古来から国家権力の及ばない場所が広がってます。その中の人は定住もしてないし、農耕もしてない。葦で作った浮島に住み、魚を捕り、水牛を飼い、その乳を食べて暮らしてる。それはヘタすれば旧約聖書が書かれたころから変わってないんですが、もちろん古代文明のお膝元なのではるか古代から様々な地域と交流があり、未開の土地とはほど遠い。でも、世界的にはそこの人々の実情についてほとんど知られていない。すごいところがあるものですね。

古代シュメール文明から始まって、すみかを追われてやってきた古代のユダヤ人の話、イスラム化が起きた時代の話、オスマン帝国時代の話、イラン・イラク戦争、サダム・フセインの時代、そして現在。めまぐるしい。そして、いつの時代もこの湿地帯は権力にあがなう強者の集う梁山泊であったと。というか、「水滸伝」の英訳では梁山泊はEDENと訳されていて、それはそもそもこの湿地帯に逃げてきた人々が旧約聖書を書いていて、つまりはここがエデンの園だと。

そんなところに高野さんが行って面白くないわけがないんで、その思想と思考と行動の連なりを大笑いしながら読ませてもらいました。とーっても分厚いんですが、いやあ、面白かった。

ちなみに、タイトル通り、高野さんはこの湿地帯を水滸伝の梁山泊になぞらえて、出会って徐々に仲間になっていくイラクの人達を「水滸伝」の登場人物になぞらえて「ジャーシム宋江」なんてあだ名をつけて呼びます。わかりやすくしようとしてくれてるんですが、こちとら「水滸伝」を読んでないのでさっぱりわからない。これを機会に読んでみたいと思いました。

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言語はこうして生まれる/モーテン・H・クリスチャンセン ニック・チェイター

言語というのはとても不思議なもので、ほぼすべての人類が身につけるものではあるのに、どうやったら習得できるのか誰もよく理解出来ておらず、意図して身につけようとすると多くの人が(もちろん私も)苦労するという、なんとも難しいものです。

最近はシジュウカラが言語っぽいものを持っているのではないかという研究もありますが、今のところ言語を使っているのは我々ホモ・サピエンスだけで知能として我々と大差ないと考えられるチンパンジーやオランウータンなども言葉は使えないようです。ということは、ホモ・サピエンスには何かしら言語を操るための他の動物にはない先天的能力があるだろうと考えられるわけですが、それが何かということはどうにもはっきりしない。

この本は、人間が言葉を使えるのはなぜかということにある程度の結論を出しています。それが「ジェスチャーゲーム」をする能力です。

非常に複雑な文法を持った言語が約7000も現存しているのはなぜか・・・ということはちと置いておいて、そもそも、どうして人間は他の個体と意思の疎通が取れるのか。それを著者はジェスチャーゲームはどうやったら成立するのかをもとに考えます。まあ、そもそも、意思の疎通を図るのに音声言語である必要はないわけです。「みんなが手話で話した島」で紹介されているように、共同体の全員が手話だけでコミュニケーションしてやっていくことは不可能ではない。手話も文法を持った立派な言語の1つですからね。で、この本の第1章では、エンデバー号のクック船長が南米最東端の港で水と薪を補給するために原住民のハウシュ族とコミュニケーションする場面が紹介されます。クック船長側からは贈り物を贈り、ハウシュ族の代表を船にディナーに招き、友好的な関係を築いて目的を果たしています。で、そもそも、なんでこれは可能だったのか。

例えば、全く言葉の通じない国を海外旅行していて、「おなかが空いたから、何か食べるものが欲しい」と伝えたいとします。おなかを押さえて悲しそうな顔をし、何かを口に入れる仕草をすれば、たぶん通じます。しかし、よく考えたらこのジェスチャーには死ぬほどたくさんの解釈の幅がありうるわけですが、なぜ通じるのか。それは、相手が

  • この人は何かを伝えたがっている
  • しかし、言葉で伝えることはどうやら出来ないらしい
  • こういう状況で、食べ物を欲しいを訴えることは状況としてありがちだろう
  • 仮に空腹で食事が欲しいのであれば、自分も同じようなジェスチャーをするだろう

ということを共有してくれるからです。で、多かれ少なかれコミュニケーションというはこのような共通の認識があり得るから成立するわけですね。これが非常に抽象的な概念になってくれば言葉を尽くしてもそこに生まれるのは「共同幻想」かもしれないわけですが(笑)、しかしながら、それが完全には共有されていなかったとしても社会が成立する程度のコミュニケーションは取れる。仮に、人類が今のような発声器官を持っていなかったとしても、おそらくこの個体間での暗黙の共通認識を成立させる能力があれば、言語は生まれるんでしょう。

逆に、チンパンジーがほぼ人間と大差ない知能をもっているのに言語を扱えないのは、「相手が何を伝えようとしているのか察する」能力がないからだと。チンパンジーの前に伏せたコップを置き、その片方にリンゴ片を入れる。そして、相手にどちらにリンゴが入っているかを指を指したり、コップをじっと見つめたりして伝えようとしても、上手く伝えることは出来ない。ただ、入っているリンゴを取ろうとするとその意図は理解して、先に取ろうとするらしいんですね。つまり、チンパンジーには「相手に行動を予測する」能力はあるのに「相手がこちらにリンゴのありかを教えようと思っている」ことがわからないし、だから「仮にリンゴのありかを教えようとしているとしたら、どうやって伝えるだろうか」ということを察する能力がない。

ちなみに、これは「文化がヒトを進化させた」に書いてあるんですが、オランウータン、チンパンジー、ヒト(の幼児。社会的な学習をする前の能力を知りたいため)の能力を調べると、空間認知、量概念、因果関係などを理解する力にこの3種のサルの能力に大きな差はありません。ただし、社会的学習能力はヒトの幼児が圧倒的な差をつけて優位になるんだそうです。社会的学習能力ってのはどういう測定をしているかというと、何か被験者が欲しがるものを獲得するための手段(ちょっと簡単には思いつかない方法で道具を使うとか)を誰かがやって見せた上で、その獲得に役立った物品を揃えて同じ課題をやってみるように促します。ヒトの幼児はうまく真似をして課題を解くけども、他のサルはこれが出来ない。

さらにちなむと、同じところにこんな話も書いてあります。逆にヒトは本能的にどうしても誰かの真似をしてしまうようで、相手と違うことをすると報酬を与えられるようなゲームをさせるとチンパンジーに劣るんだそうです。例えば、非対称マッチングペニーゲーム(詳細は割愛しますが、まあ、例えばチョキで勝つと、パーやグーで勝つよりポイントが多くもらえるじゃんけんみたいもの)に対して確率的にどういう手を出していれば期待値が最大になるかというような戦略を考えることがチンパンジーより苦手です(というか、チンパンジーがこれで人間より良いスコアを出せることが驚きですよね)。特に、あいこではなく、相手と手が食い違ったときに有利になるゲームが優位に苦手だと。それぐらい、人間は本能的に真似をするように出来ているんですね。

じゃあ、これで人間が言語っぽいものを使ってコミュニケーションが取れそうだというのはわかったとして、実際に我々が使っている言語、特に文法なんかはどうやって生まれてくるのかというと、それは人間の短期記憶の制約に依るものだろうと。そもそも人間の短期記憶はものすごく制限されているので、音声情報がストリームで入ってきてもそれを全体として処理対象にすることは出来ません。なので、それをぶつ切りにしてある程度を新しいチャンクにまとめて、それをさらにまとめて・・・と処理せざるを得ない。それが、今の自然言語の文法が必要とされる原因だろうと。発話も同じで、よっぽどの訓練をしない限り長い文章を一気に組み立てて順に発話していくことなんて出来ないので、「えー」とか「あー」とか言いながら、細かいフレーズを音声に押し出していくしかない。という制約に適した文法をジェスチャー混じりのコミュニケーションから組み立てていくと、今のような文法を持った言語が、バラバラに7000も出来てしまうのだろうと言っています。なるほど。

逆に、人間には生得的に文法能力があるのではないかという生成文法の考え方でいくなら、そこから7000もの言語が出来てしまうその能力はあまりにポンコツじゃないかと(笑)。まあ、それはわからなくもないですね。

後は文法の生まれ方の調査についてとか(例えば訳のわからない複数の音素の並びを伝言ゲームしていくと、ちょっとずつ間違って伝わっていく中である程度の法則がそこに出来てしまう話とか。興味深い)、脳にある言語野は本当は何をしているのかとか、いろいろなトピックがあり面白いです。

最後の章で、GPT-3を代表とする自然言語処理のAIが我々の仕事を奪うかという議論をしていて、ここまでの議論のように我々が言葉を使ったコミュニケーションをするために必要な能力が本質的にはジェスチャーゲームを成立させるために必要な能力だとしたら、GPT-3はあなたの代わりにはならないですよとそういうことを書いているのも面白かったです。これはある種の新しいチューリングテストを作り出せる話?ホント?

というわけで、なかなか面白かったです


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After Steve/トリップ・ミックル

良かれ悪しかれ絶対的な意思決定機関だったスティーブ・ジョブズを失った後、Appleはどう舵取りされてきたのかの内幕を語るノンフィクションです。それは、この10年の間のWWDCやiPhoneの製品発表会の裏側で何が起きているのかを妄想してきたり、ネタに酒を飲んできたりしている私たちにとっての「答え合わせの書」でもあります。読まないではいられません。

これまでにアイザックソンの有名なジョブズの伝記と、ジョニー・アイヴの伝記は読んだことがありました。アイヴの伝記の著者は2019年にティム・クックの本も書いているんですが、そっちは読んでおらず。クックの来歴についてはこの本で初めて知りました。

ジョブズが死ぬ前は、ジョブズとアイヴがカッチョいいプロダクトを作り、それをクックが何億人という人に滞りなく届けてちゃんと儲けるという体制が出来てました。そして、ジョブズ亡き後、クックがアップルを率いていくわけですが、当然、ジョブズを介してつながっていたアイヴとクックという両輪は、それまでとは違うゆがみが出てくるわけです。

というわけで、この本は1章ごとに「クックパート」「アイヴパート」が繰り返されていきます。そして、読めばこの2人がどれだけ偉大なデザイナーと経営者なのかということがはっきりとわかります。いや、読む人のある程度は「この2人がどのようにしてジョブズ亡き後のアップルをダメにしてしまったのか」という期待で読むのだろうと思いますし、原著のサブタイトルには"How Apple Became a Trillion-Dollar Company and Lost Its Soul(アップルはどのようにして3兆ドル企業になり、その魂を失ったのか)"と書いてあるぐらいだからある程度はそういう期待に応えるつもりで書かれてはいます。

しかしながら、この本を読むとなんら間違ったことは起きてないわけです。ジョブズがいなくなった後、いきなりこの2人が仲違いしたわけでもないし、ジョブズに成り代わろうとして迷走したわけでもない。アイヴはクリエイティビティを焚きつけて、かつ、世のゴタゴタから守ってくれていた偉大な才能を失いながらもジョブズがいなくても自分たちはクリエイティビティを形に出来るんだともがいて成果を出し(結果、燃え尽き)、クックは前任者の様に製品開発に逐一介入するようなことはせず、アイヴに任せるべきところは任せ、会社を適切にオペレーションし、株主からの要求に応え、議会とも中国政府ともトランプ大統領ともタフな交渉をこなす。すごいです。そりゃまあ、いろんな問題は起きているし、人間関係のゴタゴタは起きまくっているし、社員は激しいプレッシャーでボロボロになっていっているんだけども、そんなのまあ、どこの会社にだってあることで、アップル社内が楽園のようなところだとはだーれも思っていないわけですよね。

この本を読むと、逆にこの10年、ジョブズが生きていつもの調子でやってたバージョンのアップルのことをどうしても考えてしまいます。ジョブズはその後もずっと魔法を続けられたのか。アップルはジョブズの魔法を実現させることが続けられていたのか。どーだったんでしょうねぇ。

 

 


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プロジェクト・ヘイル・メアリー/アンディ・ウィアー

「火星の人」「アルテミス」に続くアンディ・ウィアーの長編3作目。「火星の人」の大ファンなので作者名で即買いなんですが、出版されるのを聞いたのは野尻抱介さんの下のツイートを見たから。野尻先生がコレだけ言うんなら、もう疑いなしでしょう。ウッキウキで発売日を待ちました。ちなみに、てっきり文庫だと思ってたんで、四六判が届いたときには結構ビックリしました。うん、よく見たら文庫っぽくない値段だわ。一気に読みました。

いやー、面白い。で、確かにアイデアがちょっと「太陽の簒奪者」っぽい(笑)。なるほど、編集者が野尻先生からコメントを取りたいと思うのは、納得です。実際、このコメントが帯に書いてありました。

 

で、物語の初っぱなに主人公が記憶喪失になっているんで、基本的に何を書いてもネタバレになるんで何も書けないんですが(笑)、やっぱりこの本の着想の1つはパンデミックにあると思うんです。この本がどのぐらい前から執筆されていたのかわからないんですけど、たぶんCOVID-19のパンデミックの影響は受けている。今年、「ポストコロナのSF」のような短編集で素早く呼応した作品は出ましたし、今後、SF作家の皆さんがこの状況から着想を得た作品を次々に出すと思うんですけど、そのうちの最も早いものの1つと捉えるとちょっと震えます。この発想はやっぱりすごいなー。

というわけで、ネタバレなしで話せるのはここまで。以下はぜひ、本を読んでからお読み下さい。

 

 

 

 

いいかな?

「火星の人」にしろ「アルテミス」にしろ、この人の作風は基本的に現代の科学の想像力の域を出ないことにあると思うんです。火星基地にしろ、月コロニーにしろ実在しないし、今すぐには実現しないものをテーマにしているんだけど、そこにあるテクノロジーは基本的に現代の科学の範囲内だし、社会システムや文化も基本的には今と変わらない世界。にもかかわらず、「こんなことが!」というすごくSF的な事件や状況を描き出す。SFというと読み手にもかなりの「思考のジャンプ」を要求する作品は多いし、むしろ、それがSFを読む醍醐味だったりするわけですが、ウィアーの作品はそうではない。むしろ、読むと現代科学に詳しくなるようなスタイル。ここにSFファンとしては物足りないなと思う人もいるかもしれませんが、逆にあんまりこういうスタイルの本で傑作と呼ばれるものが少なかったように感じているんで、これはこれですごく魅力かなと思います。「三体」の特に3巻目の「死神永生」なんかはSFを読み慣れていないと「概念的に振り落とされる」人もいるでしょうが、ウィアーの作品はそういう意味では読みやすい。科学の知識がないと読めないということは、ないです。もちろん、タネ明かしが「科学的に考えるとこうなる」ってことがあるんで、知識があった方が楽しめるのかなとは思いますけど。

で、今回の作品は、ウィアーの作品にしてはかなりの大嘘が出てきます。ガンダムでいえば、ミノフスキー粒子みたいなものが出てくる。これが、アストロファージ。作中でこれは細菌だとされてますが(顕微鏡で見えないとやっかいだし)、この名前はバクテリオファージを思い起こさせます。やっぱ、ウイルスを思い起こさせますよね。コロナ禍だからって太陽系に感染するウイルスの話を思いつくってのはだいぶどうにかしている(笑)。これが災いの元であり、超科学の元になっている。このアストロファージは、あらゆるエネルギーを質量に変えて保存することの出来るオーパーツ。それがあったとして、それ以外は純粋に現代の科学の範囲内で話が進んでいきます。火星基地、月コロニーときて、今回は恒星間航行なのでだいぶ未来度が上がってます。でも、「火星の人」の「火星パート」「NASAパート」よろしく「宇宙船パート」「地球パート」が並行して進むうち、「地球パート」は完全に今の社会と変わりません。それでも、ずいぶん書くもののスケールが大きくなってきてますよね。ウィアーさんが「次はここまでやってやろう」と企んでる感じがひしひしと伝わってきます。

なーんて、今回もいつものウィアーだと思って読んでいたら、まさかの異星人ですよ。そーゆーのはやらないと思ってたんで、びっくり!それも臭わせるだけとかじゃなくて、がっつり出てきますよ、地球外知的生命体。普通に会話します。めっちゃ仲良くなります。冗談とか言い合います。それも、いつものウィアー流の中で。おどろいたー。

このクモ型異星人のロッキーがねー。愛らしいんだよねー。もう映画化が決まってるらしいんですが、大丈夫かな。これ、実写映画にしたらロッキーはだいぶ怖い見た目だと思うんですけど、ちゃんと愛らしくなるかなあ。心配です。

ラストも、まさかこっちとは・・・。最後の章番号が、エリディアン文字になってるのをみて思わず笑い声をあげてしまいました。たぶん、地球は偉いことになった上、それでも負けない人々が復興させていったんだと信じますけど、それは書かないというね。「三体」でがっつり侵略され醜い姿を見せる人間を書く劉慈欣と、人間のポジティブな面しか書きたくないウィアーの違い。ノンフィクションで書くとキツいことをSFやファンタジーで書くってのも大事なことだと思います。でも、私はウィアーの優しさにちょっとほだされちゃいます。

というわけで、今の段階ではこれを書くこともネタバレなんで声高には言われてませんが、以後、「ファーストコンタクトもの」の傑作として語り継がれること必至な本作。2021年のベストかなー。楽しかった!

 

 


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三体III 死神永生/劉 慈欣

ついに完結編。出ました。

いやー、面白かったー。なんか、ホントにてんこ盛りというか、ごった煮というか、ある意味で「ハイペリオン」みたい。ただ、今回は程心ちゃんが一貫して主人公なので、その分の読みやすさはあります。ありますけど、今度は時間の方がびゅんびゅんとカッ飛んで進んでいくんで、そっちが大変。

でも、ここに惜しみなく投入されているSF的アイデアの数々には、本当に恐れ入ります。後書きによると、この「死神永生」では前2作ではある程度セーブしていた「ハードSFテイスト」をフルブーストにしているらしいです。物理学科卒の私は面白がってますけど、普通の人はどうなの?ひも理論が10次元を必要としているけど、我々の4次元以外の6次元はどうなったって話がありますが、まさか〇〇がどんどん〇〇してしまったので残り少なくなっているとか、面白いの、この話?(笑)

というわけで、もう面白さは保証されてるんで読むしかないです。今から思うと、「三体 I」はゆったり進んでたなあ・・・。

というわけで、以下、ネタバレです。本を読んだ方だけ、どうぞ。

 

 

 

こんなものでいいかな?

さて、最後まで読んだ方は全員思ったことがありますよね?それを書いておきましょう。

「最後、2人を会わせないとか、作者は鬼か!」

なんだろう。これも一種のロマンチックなの?これだけ引っ張っておいて、地球人類最後の2人を程心と雲天明にしないんだから、ビックリですよ。

なんていうかね、この雲天明が陰キャな理系男のシンパシーをくすぐるんですよね。こんな自分にも声をかけてくれる優しい同級生に恋をして、恋をした記憶だけ大事に生きてるという男。そして最後には彼女の心を手に入れるのに、その瞬間、自分は(それも彼女のせいで)お味噌だけになっているという・・・こんな話書くなよと(笑)。どんな絶望的なラブストーリーだよ。で、そこから800ページ引きずって、会わないという。酷い。こういう酷いのを書いてみたい気持ちはすごくよくわかる(笑)。

宇宙ヨットを連続核パルスで吹っ飛ばす話。異星人の超技術宇宙船を4次元空間からぶっ壊す話。光速を遅くすることにより星系をまるごと事象の地平線の中へ閉じ込める話。地球人類を木星の影に作ったスペースコロニーに移住させる話。太陽系をペラペラにすることにより破壊する話。いろとりどり、何でもあり。そして、最後はとっくに地球文明が滅び去った後、次の宇宙に行く話ですよ。すごいね。

で、今、感想を書こうかなと思って上巻の頭を見返して、コンスタンティノープルの話を読んであったあったと。これも、もう一度読むと4次元の欠片の話ってわかる。うあー、もう一回読まないとだめかー。「時の外の過去」パートもあるしなー。

いや、感想まとまらないな。まあいいや。こんな面白い小説だから、また読み返すこともあるだろう。とりあえず、今は満足!


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遊牧民から見た世界史/杉山 正明

 

スゴ本ブログで取り上げられているのをみて、なんとなく購入。

もの凄く面白かったんですけど、とにかく私がこの本に書かれていること、およびその前提となる知識がまったくないということがそれ以上に衝撃でした。

ウチの高校は文理に分かれるのが3年になってからで、1年では地理、2年では世界史と日本史を全員が勉強します。もちろん、どれも1年では履修範囲は終わらないので、3年になって受験に必要なものを選択して残りを勉強すると。そういう仕組みになっているために、歴史は1年しかやらない生徒が古代から中世やって終わってしまうのもどうなんだということで、日本史は幕末から、世界史は大航海時代から始まります。世界史のノートの1ページ目にトルデシリャス条約が出てくるんだな。いや、私も良く覚えてるよね、そんなこと。

大航海時代以降、各地域の歴史ではなく「世界史」という面で捉えると、中心はオランダ、スペイン、ポルトガル、イギリス、アメリカ・・・と移ろって現代へ続いていきます。「実社会で役に立つ」という意味では、この方針は役に立っていると思っていて、ウチの学校はエラいなと。

それはともかくとして、そういうわけなんで私の歴史の知識というのは、ルネサンス以降のヨーロッパに偏っていて、古代ローマとか、中国とかよく知りません。で、それ以上に、中央アジアとか西アジアとかモンゴル帝国に関する知識がこれっぽっちもないし、もっと言えば、地理的な感覚もまったくありません。黒海と中国の間がどうなってるのか、まったくイメージ出来てません。

この本の最初は、舞台となる地域の概略から入ります。テンシャン、パミール、アム川とシル川・・・どこ?全然位置関係が把握できない・・・。

仕方ないから、地図帳を買いました。懐かしい・・・。

これを参照しながら、本を読み進めていったんですが、わかったことはとにかくヨーロッパも中国もまったく騎馬遊牧民に太刀打ち出来なかったということです。基本的に、されるがままです。それぐらい、騎兵というものが圧倒的な武力だったってことなんですね。

中国もモンゴル以前に漢の時代から負けっぱなしで、内実はどんどんと取り込まれちゃってるし、ヨーロッパもスキタイから始まって、ペルシャ、トルコ、イスラム、モンゴルとやられっぱなしです。で、大航海時代より前で言えば、各地域の歴史ではなく「世界史」という観点で捉えれば、どう考えても主役は中央アジアなんですな。そこで起きた文明が世界を何度となく統一しかけているわけで、その力の源は物流と経済と軍事で、それらは全部中央アジアで行われていたのだから。ヨーロッパはほとんどの時期、田舎に過ぎなかったと(笑)。でも、そこで起きたこと全然知らない。まあ、単に私が果てしなく無知なんだけども、それはそれとして、あんまり文献が揃ってないというのもあると。さらに、中国語とモンゴル語とペルシャ語と、その他の文献を総合して研究していくことが難しいし、はかどってないってのはあるんだそうです。

はー、ほー、と無知にもまったく知らなかった歴史の流れを本から受け取っていると、ちょうど、NHK BSで我々が小学生の自分に大ブームになった「シルクロード」の再放送が始まりまして、まあ、これが面白い。1983年頃の取材なので、いまから40年近く前、天安門事件も起きる前の中国、ソ連。イラクとイランは戦争中。もちろん、日本だって昭和58年と令和3年では大きく変わってはいますが、日本はあるし、自民党もまだあるし、同じ通貨を使ってもいます。しかし、映し出されている圧倒的な映像(もちろん4:3)のウイグルや旧ソ連の中央アジア諸国、中東諸国の変化はおそらく日本の比ではないと思いますから、もう、凄まじく貴重な映像で、ため息が出ました。毎回、地図帳とにらめっこしながら(とはいえ、中央アジアはそれほどページも割かれていないんですが・・・もっと詳しい地図が欲しい)、はーとかほーとかいいながら観ました。観ながら、ホントに中央アジアについてはなーんにも知らないなあと。そして、日本に邪馬台国があったのなかったのというころから、世界史はもうこんなに激動していたんだということに圧倒されました。

いやー、小学生の時も親はこれを観ていて、横で「くそつまんねー」と思っていた記憶があるんですが、こういうものを面白がるためには大人になる必要があるんですなあ・・・。

というわけで、しばらくシルクロードがマイブームです。続けて、他の本も読んでみたいんですけど、何がいいのかなあ。

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「第二の不可能」を追え! ――理論物理学者、ありえない物質を求めてカムチャツカへ/ポール・J・スタインハート

2020年のノーベル物理学賞が、あのロジャー・ペンローズに与えられました。といっても「あの」と言われても全然ピンとこないよという人も多いとは思います。ペンローズはもちろん今回の受賞理由であるブラックホール理論でも有名ですが、宇宙論や脳科学の分野に量子論と数学で挑み、私のような理系のくせに数学が苦手な凡俗に取っては物理なんだか数学なんだか哲学なんだかオカルトなんだかよくわからない境地に行ってしまっている、知の大巨人みたいな人です。結果、そもそもどこを取り上げて評価して良いんだかなんともよくわからない人で、今回の受賞を聞いても「うーん、ペンローズにノーベル賞が授与されるのは当然の様な気がするが、ブラックホールであげて良いのかどうかはわからないなあ・・・でもそろそろ死んじゃいそうだし、あげとかないとなあ」みたいな気持ちになるのでした。

そんな偉大なペンローズ先生の業績のうち、わかりやすいものの1つがペンローズ・タイルです。これはこれで、別のノーベル賞が与えられた研究である「準結晶」というものの発見のきっかけになっている歴史的に重要なものなんですが、ペンローズ先生にとっては遊びです。数学のパズルの1つで「非周期的にしか隙間なくぴったり敷き詰められるタイルの形はあるか」という問題。この問題の答えは「ある」だということがわかっていたんですが、非常に多くの枚数のタイルが必要だと考えられてました。それに対して、ペンローズ先生はたった2種類の四角形のタイルでそれができることを発見したんですね。ただし、このタイルの並べ方にあるルールを適用することが必要だと。タイルのこの辺とこの辺しかくっつかないよというような。それはルール違反じゃないの?と思うかも知れませんが、その辺の部分にジグソーパズルのかみ合わせのような突起を付ければ実現できちゃうんで、ルール違反じゃないんですねー。まあ、「ペンローズタイル」でググってみて下さい。一見、ずらしたらぴったり重なる重ね方がありそうで、実は出来ないという、なかなか面白いパターンで、見飽きません。このペンローズタイルは人間が考え出したパターンなわけですが、では、実際にこのペンローズタイルのように結晶格子が非周期的にしか並んでいない、結晶のようで結晶ではない物質は存在しうるんでしょうか。します。それが、準結晶です。

で、この本は準結晶に深く挑んだ理論物理学者(といっても、結晶学の専門家ではなく、宇宙論もバリバリやってるんですが)が、その研究と発見の経緯を綴ったものです。うん、今回も前置きが超長い。

私が大学に入ったのは1994年。研究室に配属になって固体物理学の基礎を勉強していたのは97年頃。その頃には既に準結晶というものが存在すると言うことは、教科書に載っていました。ただ、そういうのもあるよ、ぐらいの感じだった気がします。10年ぐらい前の発見だったんですねぇ。この本のストーリーは80年代の半ばから2012年頃までなので、私が大学院生だったのはまさにど真ん中の時期。こんな面白い発見が隣接してる分野で起きていたなんて知らなかったです。私は透過型電子顕微鏡法(TEM)の研究室の出身なんで、ここで出てくる研究手法に毎日接していたわけなんで、この話題には非常になじみ深いんですけど。

この本の著者のスタインハート先生は、結晶化の過程の計算機シミュレーションをしていて、結晶として決して許されない対称性である5回対称性(72°(=360÷5)回転させると元の図形とぴったり一致する回転対称性のこと)を持つ正二十面体が安定となり得る可能性があることを発見します。もちろん、正二十面体のサイコロ(いにしえのD&Dプレイヤーにはおなじみですね)を隙間無く箱に詰めることはできないわけですから、これが結晶を構成することはできません。そこにペンローズ・タイルのことを聞きつけます。ペンローズ・タイルは見ての通り、5回対称性っぽい形です。もし、3次元版のペンローズ・タイルともいうべき結晶格子が存在して、それで立体をみっちり敷き詰めることができたなら、結晶学で否定された5回対称性を持つ結晶のようなものが存在しうるのでは・・・?

スタインハート先生は必死こいて考えます。まあ、2次元のペンローズ・タイルでも頭こんがらがりそうなのに、その3次元版ですから、私の頭ではどうにもなりません。世の中には賢い人がいっぱいいるもので、どうも理論的には存在出来そうだということがわかると。

そうなると、今度はそれが数学の世界だけでなく実際の物質として存在しうるかが問題になります。結晶でも非晶質(アモルファル)でもない、第三の物質。従来の常識では「不可能」と考えられていたものは、現実に存在しうるのか。難しい疑問ですが、もちろん我々は答えを知っています。存在します。最初に合金の中から発見した人はノーベル賞を取りました。さらに言えば、かなり綺麗なものが作れます。私的には、日本の東北大学がその分野で有名なことも知ってました。

というわけで、準結晶の合金は作れるようになり、現在では焦げ付かないフライパンみたいな実用化もされています。ここまで、20世紀の話。私が大学院生だったのはここまでなので、その後、準結晶はどうなったのか。

当然の疑問として、天然の鉱物に準結晶は存在するのかという疑問が沸いてきます。人工的に準結晶を作る場合にはかなり厳密な条件を作って成長させてやる必要があります。なかなか勝手になるというのは考えにくい。考えにくいのですが、もちろん、ないとは限らない。ここから、スタインハート先生の長い戦いが始まります。というか、ですね。天然鉱物に存在するかどうかの問題は、すでに理論物理学者の守備範囲ではなくなってます(笑)。でも、スタインハート先生、どうしても知りたい。

ここから、話は紙とペンの世界から離れ、大冒険の様相となります。もちろん、すべては天然の準結晶が存在することを科学的に証明するために必要なことなのです。

登場人物も多彩!

盟友となるイタリアの博物館の鉱物学者。電子顕微鏡のプロ。フィールドワークでならした地質学の権威。スミソニアンの隕石学者。イスラエルに移住したソ連のプラチナ研究所の元所長。オランダの怪しげな鉱物商。etc・・・。

そして、世界にたった2つしか存在しない鍵を握るサンプルを数十年前にカムチャッカで採取した当時の学生(今は60代のロシア人地質学者)に導かれ、一同はツンドラを越えて巨大熊に怯えつつカムチャッカの地図に載らないような小さな川の畔へ・・・。いや、凄いな、これは。最後は冒険小説みたいになっていきます。うん、熊怖い。

いやー、面白かった。夢中で読みました。サンプル中の一部に電子ビームを絞って回折パターンを取って結晶構造を特定するのは電子顕微鏡の得意技で、学生の時にはTEMの勉強をそこそこしましたから、久しぶりにブラッグスポットやら菊池パターンやら懐かしい言葉に触れたのも個人的な喜びでした。でも、別にそんなこと知らなくてもこの知的大冒険には興奮出来ると思います。表紙の点々が何を意味するかなんてわからなくても(この点々の並びは、当時の結晶学の専門家が即座に「あり得ない!」と叫ぶようなものなんですが)、この本は間違いなくオススメです。

 

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幻のアフリカ納豆を追え! : そして現れた<サピエンス納豆>/高野秀行

各所で話題のこの本、読んでみました。

この本は、「謎のアジア納豆」の続編です。が、いきなりこの本を読んでも全然大丈夫です。

物語は、「謎のアジア納豆」を読んだ高野さんの幼なじみの健ちゃんが

「ダワダワの製造農家取材、9月の下旬に行ってきま~す。西アフリカ共通のうま味調味料ということがわかって、前から行こうと思ってたので。確かボコ・ハラムとかの活動エリアに近づくので、3人のAK47を持ったセキュリティーと行きます。場所はKANOというところ。一緒にどう?笑」 

というかるーい感じでナイジェリア取材に誘ってくるところからはじまります。

うん。最初からおかしい(笑)。普通はそんな幼なじみはいない。

というわけで、イスラム過激派が跋扈してあっちこっちが危ない西アフリカはナイジェリアへ納豆探しの旅にでます。味の素の現地法人の偉い人と一緒に。この幼なじみの人は味の素の社員で、現地の旨み調味料の調査がお仕事なんですね。世の中にはいろんな人がいる・・・。

というわけで、アフリカで納豆(=納豆菌で豆を発酵させた食品)探し。アフリカには様々な納豆があるようです。面白いのは、納豆を愛する人達がみんな(アジアのいろいろな納豆を作っている人もそうらしいです)納豆は自分のところにしかない変わった食べ物だと思い込んでるところ。「日本にもダワダワ(ナイジェリアの納豆)はありますよ」というと、「えっ?ナイジェリアから輸入しているんですか?」という返事が来るらしい(笑)。あー、でもこれ、日本人もそう言いそう。

そんなこんなで、ナイジェリア、セネガル、さらにはブルキナファソという聞いたことのない(少なくとも私はこの本を読むまで聞いたことありませんでした)アフリカの国と、そして韓国へ高野さんは出かけていきます。韓国にもあるらしいよ、納豆。でも、なんでほとんどの日本人は隣の国にも納豆があることを知らないんだろう・・・という謎を解くために高野さんはゆく。

いやー、面白い。1日で一気に読んじゃいました。単にルポタージュ・・・というか珍道中が面白いというのと同時に、「人類にとって納豆とは何なのか」「どんな人達が納豆を必要としたのか」という問いが各地の取材をするウチに立ち上がってくるのが見事。後は「主にネバネバ状態をご飯の上に載せて食べる」という日本人の納豆の利用方法がけっこう特殊で、海外の納豆を参考にすればまだまだいろんな納豆の食べ方があるというのが新鮮。勉強になるなあ。

ちなみに、最初にでてくる幼なじみの人、「健ちゃん」は同じ調査について別の視点でnoteに書いてて、この本を読んでからそっちを読むとまたなかなか面白い。なんてったって、この取材を通じて調査したダワダワを元に味の素は現地で「ダワダワ版ほんだし」を開発して売っているんだそうです。すごい!

幻のアフリカ納豆を追え!アナザーストーリー

ナイジェリアのうま味の秘密は「豆」にあり!味の素グループの「うま味ハンター」が生み出したものは・・・


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More Effective Agile/Steve McConnell

あの「Code Complete」のマコネルさんの、アジャイル指南・・・というよりも2010年代を通過してソフトウェア開発の手法はどのように進化してきていて、マコネルさんのコンサル会社がどのようなケースを見聞きして、その結果として彼が考える「現代のソフトウェア開発のベストプラクティス」とは何かということを語った本です。

2000年代には、それまで軽量プロセスとかイテレーショナル開発とかいろいろな呼ばれ方をしていた知見を「アジャイル」という言葉の元に束ねて、アジャイルとはいかなるものかの試行錯誤が行われました。その頃には、従来の手法とは別にアジャイルという新しい手法が生まれた様に見えていましたし、案件の性質によって使い分けようというような動きもありました。しかし、2010年代には従来のソフトウェア開発の手法の問題を克服するために生まれた次の手法がアジャイルだということがはっきり示され、それ以外の手法で使うための新たなメソッドやツールを生み出す動きが潰えました。つまり、「ソフトウェア開発のベストプラクティス」とは、イコールとしてアジャイル開発のことであり、結果としてこの本はアジャイルの本といって過言ではないです。タイトルに偽りなし。

ただし、この本が「アジャイルという新しい考え方を説明し、普及する」という視点ではなく、あくまで2010年を通過して今あるソフトウェア開発の手法のベストについて語るという本であることは重要で、つまりはアジャイルが正道となった世界で、我々はどうしていくのかという本です。

もちろん、私たちみんながアジャイル開発をやっているわけじゃないし、「正しい」アジャイル開発を出来ているわけでもありません。それは20世紀に誰しもが「正しい」ウォーターフォール開発を出来ていなかったのと同じです。どちらにしろ、開発手法を理解し、そこで起きうる問題を把握し、対処し、その手法の目指すところを体現できているかどうかというのは、ものすごーくムツカシイことです。

というわけで、なんか新しいことが書いてあるわけでもなんでもないですが、短いページ数(日本語版でも300ページ未満です)にエッセンスがぎちっと詰まっていて、取り上げたい知見や、引用したい名言に満ちた本です。すべからく読むべき。特に、アジャイル開発におけるリーダーの役割についての言及が素晴らしい。まあ、書いていることがソフトウェア開発手法で、それはつまり「管理手法」なんだから当然なんですが、もう、耳が痛いことがびっちり書いてあります。知識の整理にはぴったりだし、アジャイルを開始するとっかかりとしても良い本。私も「ちゃんとしたスクラムができた」と感じたプロジェクトはまだ出来てないんで、ちゃんとしたいですね。なかなか状況が許しませんが。

というわけで、以下は読み終わった本のページをめくりながら、面白いなと思ったところをピックアップしておきます。

Cynefin

3章。聞いたことがない概念がでてきて、意外とこの本の最後まで使われます。IBMにいた人が作ったフレームワークで、「クネビン」と読むそうです。

Cynefin_as_of_1st_june_2014

図の通り、5つのドメイン(系)があって、問題はどこかに分類されると。で、分類された位置によって異なるアプローチがされるべき、とCynefinでは言ってます。詳しくはWikipediaでも。

で、はしょりますが、ソフトウェア開発で相手にすべきなのは図の上の2つ。「複雑(Complex)」と「煩雑(Complicated)」だと。カオスはソフトウェアで解決しようとすんなと(笑)。では、上の2つに対してどうアプローチすべきかというと、

複雑:調査(probe)-把握(sense)-対処(respond)

煩雑:把握(sense)-分析(analyze)-対処(respond)

はい、ピンときましたね。アジャイルにおいて最も重要なことはリリース間隔が短いことなわけですが(「LeanとDevOpsの科学-Accelarate」を読んでね)、それはつまり複雑なドメインに対するアプローチだからです。短い間隔でリリースして、フィードバックを得る。そしてそれに対して次のリリースで対応する。「調査-把握-対処」ですね。

それに対して従来のソフトウェア開発手法、この本ではシーケンシャル開発と呼んでますが、それでは、様々な要求をかき集めてきて、それを分析して、モデリングして、アーキテクチャリングして、ソリューションを作り上げている。つまり、煩雑系に対してアプローチしているわけです。

で、ソフトウェアで解決しようとしている問題があって、その多くは複雑なのか煩雑なのか。複雑だと思ってたら煩雑だったことがわかった場合、「とりあえず、やってみようぜ」とトライして行った調査・実験はムダだったということになります。ちょっとショック。しかし、煩雑だと思ってたら複雑だった場合、プロジェクト終盤に「あれ、やろうとしてたこと間違ってね?」となる。これは致命的なショック。なので、ソフトウェア開発は、まずは対象を複雑系だと考えてアジャイルに取り組み、煩雑系だとわかったらそれに対処する(その部分に対しては、きっちり問題を分析して組み立てるシーケンシャルな開発へシフトする)方がよい。だから、アジャイルなんだよーと言ってます。なるほどね。

スクラムから始める

アジャイルやりてーなと思ったら、とりあえず、スクラムをやれ。アジャイルうまくいかねーなと思ったら、とりあえず、きっちりスクラムをやれ。スクラムから取捨選択をするな。なぜなら、アジャイルには膨大なプラクティスが存在するが、そこから最小限のプロセスを使って作られたフレームワークがスクラムだから。これ以上省くことは許さぬぞ、とマコネル先生の教えです。ワカル。

スクラムがダメっていう奴はだいたいちゃんとやってない奴なんだよねーということで、4章ではスクラムの様々な失敗モードが紹介されてます。「無能なプロダクトオーナー」とかいう節があって、読むと心が痛い。ちなみに、今までみたダメスクラム傑作例は

「スクラムを検討してみたが、そのプラクティスのほとんどは私たちの組織ではうまくいかないようだった。私たちはスクラムを実践しているが、主に導入しているのはデイリースタンドアップで、毎週金曜日に行っている

だそうです。ウケル。

チーム文化

6章はチーム文化に関する章です。文化の問題はものすごく大事で、これこそがチームの生産性の要なんだけど、わかってないリーダーが多すぎ。マコネル先生曰く「企業は事実上、人々の脳内のスペースを借り上げ、企業が従業員に考えさせたいことを考えて貰うために賃金を支払う。外的モチベーションがうまくいかないのは、何かについて考えることを人に強制させるのは無理だからだ。あなたに出来るのは、企業の問題について自主的に考えたくなるような状況を整えることくらいである。」

まったくその通りなんだけど、やって欲しいことが「考えること」ではなくて「作業」だと思ってるクズリーダーが多すぎる。そのくせ、「作業」の結果上がってきたアプトプットの品質が低いと怒るわけですが、やってることがソフトウェア開発なんだからそこに「考えること」が含まれてなければ品質が低いのは当たり前なわけです。では、「考えること」のために何をやっているかというと、モチベーションを削ぐことしかやってない・・・みたいなね。

では、内的モチベーションの向上には・・・ということについては、当たり前だけど大事なことが本に書いてあるので是非読んで下さい。

分散チーム

はい、リモートワークの話です。で、おわかりの通り、チームのロケーションを分散させることはダメだよと書いてあります。まあ、その通りですな。ここで面白かったのは、以下の部分

ここで重要になるのは、定期的に直接会ってコミュニケーションを取ることである。あるグローバル企業の最高幹部は、「信頼の半減期は6週間だ」と言っていた。ミスが増えてきたと感じたら、メンバーを飛行機に乗せ、一緒にゲームをさせ、一緒に食事をさせることで、信頼関係が築かれるようにしよう。

6週間かー。つまり、緊急事態宣言でリモートワークになって本当にうまくいく仕組みが作れているかどうか、勝負は6週間経ったあとって事です。確かにねー。

個人および対話

アジャイルはこれまでプロセスの話に注力しすぎて、個人の能力開発にはあまり取り組んできてません。これは従来の開発プロセスでも同様で、個人が仕事を通じて成長することを求められているのはどこの組織でも同じだと思いますが、それが個人を受け入れるプロジェクト側では基本的に何も考慮されておらず、必要な知識やスキルを身につけられるかどうかは個人の(プロジェクト外での)努力と運に左右されているというのが現状です。しかし、アジャイルが必要とする「自律したチーム」は個人の能力に大きく影響を受けるんですから、個人の能力開発に注力するのは当然。8章はこのことに大きく記述が割かれてます。

ま、とにかく個人の成長に対して組織はもっと投資をしないといけないって事です。こんなインターネットミームが引用されてます。

CFO: メンバーに投資して、彼らが辞めてしまったらどうするんだ。

CEO: メンバーに投資せずにいて、彼らがいつまでも辞めなかったらどうするんだ。

ウケル。でも、これは自社の社員に対してはその通りでしょうが、現状、我々は外部の人員を含めてプロジェクトをしていて、これが社外の人間(つまり、長くてもプロジェクト終了時点でいなくなる人)に対しても同じように対応するべきなのかは疑問。ここは大きくやり方を変える必要があるところです。

また、開発者に求められる対話の能力やチーム内の対話の重要性にも触れられてます。これは自分がどうかというよりも、リーダーとしてメンバーをどう向上させるかという観点に立つとより重要です。ここをケアしているリーダーはまれですが、とにかく重要なんですよねぇ。

バーンアウトの回避

リリース間隔を短く保ち、スプリントを繰り返して成果を出すアジャイル開発のリズムは基本的にはいいものだけども、「締め切り前に頑張って、締め切りが過ぎたらリラックスする」という起伏がないことによって、かえってバーンアウトを誘発することがあるといいます。なるほど。確かにぱつぱつのスクラムしんどい。

そこで著者は6×2+1パターンなど、一定じゃないリズムを使うことも提案してます。2週間スプリントを6回やったら、1週のスプリントを1度はさみ、そこでは技術的負債の返済やツールの見直し、研修、チームビルディング、ハッカソン、日々の改善などをやると。これ良いですね。

要求の改善

シーケンシャルな開発手法では、最初に要件定義をしてしまい、その要件定義の品質が後々まで影響します。要求管理は非常に大事。ただ、私の感覚としてはシーケンシャルな開発においては、失敗の原因を要件定義フェーズの品質に求めすぎている気がしますけどね。要件定義が不明確だったが為に、後続のフェーズで時間がかかったり、手戻りが発生したとして、ではそれを要件定義もっとリソースをかけて回避すべきだったかどうかは疑問です。だって、後続のフェーズで必要となったリソースを前のフェーズで使ったとして、それはリソースの総量の削減になっているかどうかはわからないから。ただし、要件定義フェーズでのアウトプットを元に後続フェーズで必要となるリソース総量を見積もって、それが間違っていてエラいことになったということはあるかもしれないですが、それは単に契約形態の問題で、プロジェクト全体から見たら本質的な問題じゃないからね。

アジャイルの最も重要な点は、リリースサイクルを小さくして、一度に必要とする要求の量も小さくして、コントロールしやすくできることにあります。ただし、プロジェクト全体のリスクとしてはそれで改善されているけども、1つ1つのフィーチャーについて要求の品質が高いか低いかが出来上がるフィーチャーそのものの品質に直結することはシーケンシャル開発だろうがアジャイル開発だろうが同じ事です。ここまでユルユルでいいと誤解してアジャイルを捉えている人が実に多い。それは間違いです。

で、要求について、アジャイルだからシーケンシャルだからというのは無くて、むしろ、アジャイルは要求管理の改善の1手法であるわけです。従来の要求管理の手法には改善が必要なことは誰しもわかっているわけで、その連続的な改善の取り組みの1つがアジャイルであり、バックログ管理のようなアジャイルのプラクティスだと。

で、この分野は大変ホットなので、この20年で様々な取り組みがなされてきてて、下のリストに上がってる単語を聞いて「何それ」と思ったら勉強不足だから補えよとマコネル先生は仰ってます。はーい。

  • 受入テスト駆動開発(ATDD)
  • ビヘイビア駆動開発
  • チェックリスト
  • コンテキスト図
  • エレベーターピッチ
  • エクストリームキャラクター
  • 5つのなぜ(five whys)
  • ハッスルマップ
  • インパクトマッピング
  • インタビュー
  • ラダリング法による質問
  • リーンキャンバス
  • MVP
  • ペルソナ
  • Planguage 言語
  • プレスリリース
  • プロダクトビジョン
  • プロトタイプ
  • シナリオ
  • ストーリーマッピング
  • ユーザーストーリー

 ふぅ、いっぱいあんね。

リーダーシップ

16章ではリーダーシップについて。この本を通じて何度も出てくる原則は「スクラムチームをブラックボックスとして扱う」ということ。マイクロマネージメントを避け、インプットとアウトプットだけを管理しないと自律したチームは作れません。リーダーに出来るのは仕事の仕方をあれこれ指図することじゃなくて、せいぜいメンバーのモチベーションを上げることぐらいなわけです。辛い。「チームの生産性をどうやって上げれば良いか決めるのもチームなので、メンバーの1人が1日休めばチームの生産性が最も良くなる可能性があるとしたら、チームがその決定を下すのは自由である」とも書いてあり、リーダーはせいぜいその可能性を指摘したり、チームの決定を尊重したりとかしか出来んわけです。

もうひとつ、リーダーが大事なこととして「司令官の意図」を伝えること。これはアメリカ軍の概念で、司令部と部隊の間の連絡や協議の機会を失った状態で、部隊が意思決定を出来るようにしておかないといけないっちゅうことですね。「人にやり方を教えてはいけない。何をするのかを伝え、その結果であなたを驚かせるように仕向けるのだ」というジョージ・S・パットンの言葉が引用されてます。しみるね。まあ、この本はリーダー向けの本なので、16章は短いながら重要なことがたくさん書いてあります。

間違いを犯す

アジャイルの短いリリース間隔に期待することは素早いフィードバックであって、それはつまり、やってたことが間違ってたということが早くわかると言うこと。必然的に間違いを許す組織文化が必要になります。で、せっかく間違いによって得られた知見なので活かさないといけない。というわけで、以下の様なことが重要

  • 直すのが大変にならないうちに正す
  • エスカレーションを許す
  • 心理的安全性を高めておく
  • 知見を共有するプラクティスコミュニティ(例えば、スクラムマスターのコミュニティなど)を確立する

心理的安全性は一種のバズワードのようになりましたが、これは全てのリーダーが考えねばならぬこと。文化大事ですよ。ほんとに。

生産性の向上

このことがあんまりプロジェクトで真面目に考えられているところを見たことがないけれども、チームの生産性向上はとても大事。だいたいは、「今週は進捗よくないです。でも、作業に慣れてきたので、今後は大丈夫だと思います」的なところでいい加減に語られてしまいがちだけれども、まあ、それはそもそも生産性を測定していないんだからしょうがない。まずは測定が大事です。チームのベロシティはちゃんと測りましょう。

その上で、プロセスの改善をする。ツールを変えたり、バックログリファインメントの精度を上げたり、必要なメンバーを追加したり・・・それをちゃんとスプリントごとに改善することが大事です。

面白かったのは、「チームの生産性が向上すると何が可能になるか」という項目。引用します。

短いスプリントは、プロセスを実験的に変更し、それらの変更の結果を追跡し、うまくいく変更を足がかりにする機会を頻繁に提供する。このようにして改善がどんどん蓄積されていく。私たちはこれまで、チームの生産性が2倍かそれ以上になるのを実際に見てきた。

このことには思いもよらない意味合いもある。というのも、パフォーマンスが悪いことを理由に「問題のあるチームメンバーを多数決で締めだそう」とする場面を何度か目撃したことがあるからだ。どの場合も、事の顛末はだいたい同じである。「あのメンバーを異動させたら同じベロシティを保つことを確約できるか」とマネージャーが尋ねると、チームはこう答える。「あの人が足を引っ張っていた分、ベロシティがよくなることを確約しますよ」

もう1つの例は、チームが2つの拠点(サイト)に分散しているデジタルコンテンツ会社と仕事をしていたときのことである。1つ目のチームは15人のメンバーで構成され、2つ目のチームは45人のメンバーで構成されていた。ベロシティを厳格に追跡し、作業の進捗を監視し、その待ち状態を分析したところ、1つ目のチームが2つ目のチームとの連携に費やしていた時間と作業量だけで、2つ目のチームの作業量を超えているという結論が下された。そこで、2つ目のチームを別プロジェクトに回したところ、1つ目のたった15人のチームだけで元のプロジェクトの総生産量が増加した。1つ目のチームはアジャイルの生産性の指標をきちんと使用することで、生産性を実質的に4倍に増やした。

ツラい。でも、わかるなー。1つ目の話も、2つ目の話も、なんとなく実感があります。うーむ。

予測可能性

20章は見積の話。アジャイルは見積が出来ないと考えている人がたまにいるんですが、全然そんなことはなくて、プロジェクトの開始前でもシーケンシャル開発と同程度の「不確かな見積」は可能です。つまり、どちらの手法もある程度の仮定、つまり不確かさを認めてしまうなら、その不確かさを含んだ予測はできるわけです。だって、タスクを見積もって積み上げるだけならどっちだって出来ますよ、そりゃ。

アジャイルでそれがあまり重視されないのは、いくらかのスプリントを経ればその不確かさをすぐに小さくできるから。であれば、その不確かな見積になんか意味あるの?となると。で、通常はもの凄く意味はあって、不確かな見積が無ければプロジェクトはスタートしないんで、プロジェクト開始後に得られるより正確な見積に意味なんかないわけです(笑)。

マコネル先生はプラクティカルな人なので、もっと予測可能性が求められるときにはどーしたらいいのかという議論をきっちりやってます。見積の不確かさの管理方法はもちろん、

  • エピックを予算として扱う
  • 予測可能な範囲を考慮してアジャイルの境界を移動させる

など、言われてみればもっともだし、部分的にはやってるようなことをきっちり手法にしてあるので、エラいですね。

また、プロジェクトのスケジュールの管理のためにはポートフォリオの管理が凄い重要で、WSJF(Weighted Shortest Job First)の手法が紹介されてます。これ、有名らしいけど、知らなかった。フィーチャーそれぞれについて、それがないと発生するコストを見積もって、その合計が最小になるようにフィーチャーの優先順位を管理する方法です。これはそのまま自分たちで使えるかどうかはわからないけど(例えば、発注機能のこのフィーチャーがないとユーザーはどのぐらい時間を損するんですかって聞いて回っても、すぐに有効な数字が貰えるわけではないだろうし)、でも重要な視点だな。


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黒暗森林 三体II / 劉 慈欣

みんな、昨年の「三体」を読んだ人は手ぐすねを引いて待っていたはず。エンジニア系のポッドキャストでもあちらこちらで語られてました。「三体」三部作の第2作、「黒暗森林」です。

文化大革命を通じて人類の愚かさに絶望したある女性科学者が、侵略的異星人とファースト・コンタクトして地球の存在がバレ、侵略的移民団により地球が存亡の危機に立つという中国的といえば中国的、中国という文化圏を飛び抜けた物語のスケールが中国を越えて現代的、そして中国本土で三部作合計で2000万部以上が売れているというスケールがコレまた中国的という、非常に印象深い第1作は「そうは言ってもヤバい異星人が来るまでまだ何百年かはある」というところでラストでした。絶望の中にも希望はあるというか、なんというか。

それを受けての第2作。さて、人類はどうやって三体人に立ち向かうのか。そもそも地球人のやっていることは筒抜け。こっちの技術革新は妨害されて絶望的。しかし、三体人は「人を騙したことがない」ことが判明。地球スケール、いや太陽系スケールの空間的スケールと、登場人物がコールドスリープを繰り返すことによる数百年スケールの時間的スケールで繰り広げられる幼稚園児地球人と朴訥ピュア異星人のコンゲーム。本の厚みも第1作の倍になって、まあ、面白い。いや、よくこれだけのアイデアをぶち込んだね、しかし。

難点は、今回の主人公がちょっと変な奴ってこと。付き合ってる女性に妄想の「100%の恋人」がいて、自分もその妄想にトライし、本当に抜け出ることが出来なくなるという危ない人。で、そのアブなさが物語のキーに・・・なっているようで直線的にはなってないという(笑)、なんだかすっきりしなさがよくわからない読了感をもたらします。まあ、ちゃんと考えてみると、この「黒暗森林」というテーマと付き合わせてなかなか面白いことにはなってるんだけど、でも、主人公がちょっとアブない人だと感情移入しづらくて、最後のカタルシスが減じてるのは確かだよね(笑)。でも、そのぐらいかな。逆に言えば、途中に美味しいネタがいっぱい出てくる割に割と乱暴に「はい、その手はダメでしたー」と使い捨てられるところが気になるけど、まあ、贅沢って事だよね。あと、三体人が何考えていたのかってのの種明かしがもうちょっと欲しいかなあ。まあでも、それは第3部なのかな。

ともかく、割にハードSFなのに抜群に読みやすい(それは大森望さんの監修に依るところも大きく、普段、SF読んでる人だけがそう思うのかもしんないけど)し、逆に仕上げ感として荒っぽいところがエンタメっぽさを強めてる感じもあるし、ヒットするのはよくわかる。これは面白いですよ。ぜひぜひ


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