March 03, 2020

読書で離婚を考えた。/ 円城塔・田辺青蛙

円城塔と言えばガチガチの理学博士であり、ゴリゴリの研究者でありながら、研究では飯が食えず芥川賞を取った(はしょりすぎ)という、研究者としての道に挫折しCSもロクに囓ること無く安易にSEとして糊口を凌ぎ、ちょっと愉快な手順書を作って同僚を笑かしてはかすかなエゴを満足させて生きている私から見れば、羨むばかりの才能に溢れまくっている人です。「Self Reference ENGINE」と「Boy's Surface」はほんっとに面白かった。もうね、嫉妬しかないです。でも、最近の作品は私もいまいち理解できないときが・・。

そんな円城塔さんが奥様と共同で書評の連載をしたそうですと。ほほう・・・どのような本を・・・。目次を眺めてみたんですが・・・なんだこれは・・・どうして料理のレシピ本とか折り紙の本とかVOW(懐かしい)とかが入っているんだ・・・。

なんでも、本の趣味がまったく違う2人が「その人の本棚をみれば(略)」という格言よろしく相手に読ませて感想を聞くことにより相互理解を深めるためにお題を出し合ったという連載なんだそうです。迷走している感が目次だけでありありとわかる(笑)。なるほど、それでこのタイトルなんですね。

で、円城さんの方はきっちりしているので、ちゃんと最初のお題に絡めて本を選ぶ。奥様の田辺さんは、割とそのテーマを忘れがち。自由奔放・大らかに連載を進めて楽しそう。そんな奥様と円城さんは自然現象に相対するかのような半ば諦めの境地で着地点を探す。そんな噛み合ってんだか、噛み合ってないんだかよくわからないけどなんだか仲の良さそうな関係性を楽しむ、そんな本です。んー、だって紹介されてる本で「あ、読んでみようかな」ってなる本ないんだよ、この本は(笑)。まあでも、割と楽しく読みました。だって、もう完全に円城さんには共感しかないんだもの。

あ、でも私はたまになら嫁が料理してくれてもいいと思ってますよ(笑)


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February 27, 2020

天冥の標が日本SF大賞を受賞

おめでとーございまーす!

というわけで、2/23(日)に青山ブックセンターで開催された「飛浩隆・小川一水トークイベント」に行って参りました。

この日はまさに日本SF大賞の選考日でして、イベントの冒頭で「天冥の標」の大賞受賞、そして、「零號琴」が受賞を逃したことが発表になったのでした。悲喜こもごもでございます。

まあ、「天冥の標」はもう、1巻が出て、そしてこれが10巻で完結すると聞いた時点で読者全員が「うん、完結したらSF大賞決定だな」と確信するという、初っぱなからそんな完成度の作品だったわけですが、小川さんが「10年がかりで17冊も書かないと大賞が貰えないとは辛い。作者はちょっとずつご褒美が欲しいのです」と受賞の弁で愚痴るのもわかる(笑)。この10年、天冥の新刊が出るたびにむさぼるように読んでいた読者としては、ずっと「リアルタイムでこの作品と対峙できるのは幸運以外の何物でも無いんだから、とにかく読め」とみんなに言っていた一方で、「ホントにいつ完結するんだ・・・」と遠い目になったこともしばしば。1巻の感想をこのブログに10年前に書いていますが、そこでいきなし「完結は何年後なんだー」って書いてますからね(笑)。

いや、それにしてもホントに凄い小説もあったものです。太陽系外の植民惑星の破滅が1巻で書かれて、「どうなっちゃうんだー」とどっきどきで2巻を待ち、2巻を読んでみたらいきなり現代でパンデミックものという。今、まさにCOVID-19のパンデミックが間近に迫っているのが小説世界とリンクしてどっきどきです。まあ、肺炎は冥王斑みたいな致死率ではないものの・・・SFの想像力が人間を強くするということはあると思いますね。この1巻のラストから2巻を読んだときの衝撃と等しいレベルの衝撃が、10巻までに・・・3度はあったかな。「えええっっっ」っていうのが。それが無くても十分に面白いSFの満漢全席みたいな本なんだけども。いや、書かない方がいいな。とにかく

まだ読んでないなら、
絶対に読め!

としか言いようがない。悲劇も喜劇も、冒険も浪漫もエロティシズムも、差別も殺戮も飢餓も貧困も、異世界も異星人も超知性体も、愛も友情も孤独も連帯も、すべてがここにあるすさまじい小説なので(ないのは時間SFぐらいだな)、これを読んでない人生なんてあり得ないんで、読んで下さい。

いやー、しかし、小川一水さんはほぼ同年代なんだよな。これを10年前に構想して書き上げたわけでしょう、同年代の人が。凄すぎるよ。

というわけで、トークショーなんですが、内容はまあ、そんな大した話はありませんでした。とりあえず酉島伝法と伴名練は(買ってあるんだから)とっとと読もうと思いました。てへぺろ。

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January 01, 2020

キリン解剖記/郡司芽久

冬ごもり2冊目は、世界で一番キリンを解剖している学者こと、郡司芽久さんの研究の日々。いたって学術的な真面目な本ですけど、キリンが大好きな女の子が学位論文を取ってキリン博士になるまでの話なんで、なんか凄い業績とか、人類の英知に関わる何かとか、そういうものはありません。

そういうものは無いわけですけど、おそらく日本の学者の卵が学位を取るまでの研究の日々って、どの人の話も同じぐらい面白いと思うんです。郡司さんはなんせ文章が上手いし(つか、日本の博物学系の学者はみんな話が面白いよな)、ネタが日本人なら誰でも知っているキリンなんで本に出来るぐらい一般性があるわけですが、私が大学院にいたときの経験からして、博士課程までいって学位を取ろうというのは人生におけるかなり致命的な決断であり、そんなことになってしまう人は、人生のどこかで一般的な幸せを棒に振ってもいいぞと思えるぐらいの面白いものに出会ってしまっているわけだから、そりゃ面白いに決まってるんです。でもしかでDr取る奴はいないし、取れないしね。

というわけで、郡司さんの話も面白い。そもそも、キリン博士ってなりたいと思ってなれるものじゃありません。というか、日本にキリン博士は1人いれば十分で、別にいなくてもいいわけだから、なりかたが誰もわからないわけです(笑)。私も、日本にいるキリン博士はどういう人かイマイチわからない。それは動物園の飼育員とか、獣医ではなくキリンの研究者とは何をしているのか。

郡司さんも東大に入ってすぐに、先生方に聞いてみる。「キリンの研究者にはどうやったらなれますか?」。でも、だれも知らない。しかし、ある先生との出会いが彼女を変えます。それは解剖学の先生でした。「キリン?キリンの遺体は結構手に入るから、解剖のチャンスは多いよ。機会があったら連絡するね」。実は、日本には100頭以上のキリンがいるので、ちょいちょいお亡くなりになるんですな。

そして、彼女は大学1年生にして、「日本の動物園でキリンが死んだら声がかかる人」というポジションへの足がかりを得て、早くも最初の解剖をしてしまうのでした。なるほど、キリンの研究者になるとはそういうことか・・・。もちろん、行動学や遺伝進化学からキリンをテーマにすることも出来るでしょうが、キリンメインの解剖学者は強いポジションですね。というわけで、どうしたらいいのか誰もわからないテーマの世界では「あたし、キリンがやりたい」とあっちこっちでアピールしとくというのは超重要って事ですね。

という、キリン(だけ解剖するわけじゃないけども)の死体だらけの研究生活は、なんだか微笑ましい。D論書くというのは、まあもの凄く辛いことですし、そもそも頑張ったからといって成果が出るものでもないし、キリンが死ななければ成果は出ないし、死体解剖は破壊検査なので常に緊張の連続だし。でも、そうやって辛い研究の話も、所詮は好きでやっている話。楽しくアピールして、我々は楽しく聞いて、税金払って、世界の知の総体の拡大に貢献して、それでよいってことです。というわけで、この本はすべからく読むべし。そして、学者たるもの、こういう文書はちゃんと書いて世に問うべしと、そう思いますね。

 

 

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December 31, 2019

サーバント・リーダー/ジェームズ・ハンター

いろいろと年末にバタバタしたので、年末年始の休みに入ってまず、ゆっくりと本屋にいくことにしました。Milueと2人で日本橋の丸善を1階から順にぐるっとブラウズ。至福の時間です。二人で17冊、28,000円ほど買い込みました。まあ、こんなに読めるはず無いし、そもそも積ん読もたくさんあるんですけども、買うのが楽しい。

で、普段あまり行かない経営とかそういうところにあったこの本もその一冊。開発チームのリーダー、例えばスクラムマスターなどは「サーバント・リーダー」が望ましいと言う話は良く言われることではあります。ビジョンを示して、ぐいぐいと引っ張っていくリーダーではなく、メンバーが自律的に活動する組織において、メンバーの能力を最大限引き出すために活動するリーダーを指して言うことですね。

で、「サーバント・リーダー」という言葉自体はよく聞くんですが、きちっとそれについて論じている本というのは知りません。どのぐらい前からある言葉なんでしょうか。と、いう興味もあって、このタイトルのを見て手に取りました。

んで、中を見たらサーバント・リーダーについて論じてある本じゃ無くて、仕事や家庭に問題を抱えている男が修道院に行って、リーダーのなんたるかを学ぶというストーリー仕立ての組み立てでした。いや、私、この手の本に弱いんですよね。「もしドラ」もそうだし、「嫌われる勇気」もそうじゃないですか。薄いからすぐ読めちゃいそうだし。というわけで、買ってきて、スキャンもしないでそのまま読んじゃいました。この本は2000年頃の本なんですが、そもそも「サーバント・リーダー」という言葉を作ったのは全然違う人で、その人が書いたいわゆる「バイブル」的な本は70年代に出ているんだそうです。ほー。

で、読みました。小説風だけど、うまく整理されてまとまっています。書かれてることは、まあ、ソウダネってことなんですけど、じゃあ、出来ているかというとさにあらず・・・という事なんで、こういう読みやすい形で時々読み直して自己を省みるというのは良いことだし、そのためにはこういう本が大事なんじゃないかなーと思います。

後は、サーバント・リーダーが機能するためにはチーム作りが大事。そもそも組織やチームが目的を持って作られているというのは一種当たり前の事なんだけども、その当たり前がない組織というのもあるわけです。日本では特にありがち。その場合にはリーダーは共有すべきビジョンを掲げるということも必要になります。ビジョンの輝きが権威となり、そこからリーダーシップを作ることもできるんで、その観点は忘れちゃダメだぞってのは付け加えておくべきかな。

ま、こういう本を読むと、私はつくづくリーダーの器じゃないなとは思いますけども。他人に興味がなさすぎるから。


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October 20, 2019

スレイヤーズ17 遙かなる帰路

スレイヤーズの新刊が出てしましました。すぺしゃるじゃないほうね。本編の方。2019年は変な年だなあ。

実は去年、富士見ファンタジア文庫30周年記念ということで「スレイヤーズ16 アテッサの邂逅」は出ているんですけど、こっちはまあ、同窓会的というかお祭り的な1冊で、流石にもう新シリーズをやることはないと思っていたんですけど、やっぱり出してみると反響も大きいし、それだけに「本編」を期待していた読者からの「コレジャナイ」っていう感想も多かったみたいだし。ということで、いっちょもう一回やってみるかということになったみたいです。

「スレイヤーズ」と言えば、泣く子も黙るライトノベル界の金字塔で、おおよそ誰もが頭に思い浮かべる「ライトノベル中のライトノベル」です。ゲームっぽいファンタジー世界をデータベース的に使っている点や、典型的な俺TUEEEな主人公設定である点など、やっていることは現在のライトノベルの直系のご先祖様といっていいんですが・・・なんだろう、この健康的な感じ(笑)。むしろ、ラノベの棚に並んでいると違和感があるという。

それにしたってスレイヤーズ本編の事実上の最終刊だった「スレイヤーズ15 デモン・スレイヤーズ」が出たのが2000年。まさかの・・・あの頃は作者も読者も若かった(笑)。

そんでもって、感想ですけど・・・いやー、スレイヤーズですねぇ。楽しいなあ。

ま、必要があるかどうかは別として、一応、ネタバレ線をここに張っときますね。

 

 

 

さて。スレイヤーズはメディアミックスしてますんで、アニメやコミックでは別のストーリーが語られてますし、まあ、終わってからはや20年近く経って、いろいろと整合性の調整が要りそうなこともいろいろとあるのでしょう。それらをまるっとすっ飛ばすために、今回、舞台はスレイヤーズの世界を飛び出しました。

というのも、スレイヤーズの設定では、リナたちの生きている世界の方が閉じ込められたエリアなんですね。ただ、神様レベルの話なんで、閉じ込められた世界といっても十分に広く、特に誰も不自由していないし疑問も抱いていないわけですが、その世界からすこっと外に飛び出しました。そんなことが出来るのは魔族ぐらいなわけで、当然のことながらまた高位魔族と遭遇しちゃってます。しかしながら、名探偵が訪ねると殺人事件が起きるのと同様、リナ=インバースが行くところに悪巧みをする高位魔族がいて、魔族にとってはまったくの迷惑。もう、関わりたくない!とばかりに世界の外に追いやってしまいましたとさ。

リナ=インバースが世界の外に出てしまうということは、これまで結界によって不可能だった神々の力を借りた呪文を習得できるようになるわけで・・・というか、スィーフィード・ナイトの妹がスィーフィードの分身である3つの竜王の力に接触するってことなんですけど、えらいことしちゃったんじゃないの魔族。大丈夫かな?

ともあれ、外の世界に出てきてしまったのでこれまでの登場人物はもちろん、国や組織も今後まったく出てくることはない。面白い設定です。しかも、外の世界の人にとってはいきなり魔王シャブラニグドゥの力を借りた呪文をぼんぼんぶっ放す危ない人間がいきなり現れたわけで、これはもう危険が危ない(笑)。世界の危機です。うはは。

というわけで、あの世界の外では何が起きているのか。魔族の結界に閉じ込められた水竜王を他の神々の分身はどうしようとしているのか。結界の外では魔族は自由に活動できるのか。あ、あの謎神官さんは間違いなく登場可能ですね。しかも、「あなたたちがここにいるとろくでもないですねぇ。グラウシェラー様には秘密ですよ?」の一言でリナを元に戻してこの話を終わらせられるな(笑)。などなど、世界の秘密や動きも楽しみですし、そこに「魔族もまたいで通る」ことリナ=インバースが関わることでどうなるのか、楽しみは尽きません。しかし、40も大分過ぎてまだスレイヤーズの新作読めるとは思わなかったなあ。神坂先生も50すぎてまた書くと思ってなかっただろうけども。読者も著者も長生きが必要ですねぇ。

ちなみに、今回の設定はスタートレックファンならもちろん「アレ」を思い起こします。デルタ宇宙域に吹っ飛ばされるアレね。で、アレこと「スタートレック ヴォイジャー」の記念すべき第1話の日本語タイトルは「遙かなる地球へ」。はい、もちろん神坂先生もわかっててこのタイトルつけてるはずですね(笑)。

 


 

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April 21, 2019

零號琴/飛浩隆

飛浩隆さんは寡作な作家さんで、作品が出たら品質は保証済み。

寡作で有名な作家さんってのは、すぐにいっぱしのファンを気取って話題に参加できるという、怠惰な本読みには大変にありがたい存在です。私も飛浩隆は「グラン・ヴァカンス」の2冊しか読んでませんけど、「おお、飛浩隆の新刊出るんだー。大森望さんも池澤春菜さんも褒めてるのかー。そりゃ読まなきゃなー」ぐらいの感じでいっぱしのファン面で読んでます。

いや、ハードSFなんで全然そんな感じじゃ読めないんですけどね。全然人には勧められません(笑)

飛さん的には全然そんなつもり無いと思うんですよ?中では思いっきり「プリキュア」の話してますし(というか、もうプリキュアがテーマといってもいいぐらいだよ)、誰もが熱中できる手に汗握る大スペクタクル、大冒険小説を書いてるつもりだと思うんです。

いや、でもね・・・そうはいってもですよ。

まず、厚い。600ページある。鈍器ですよ、鈍器。まあ、自炊してタブレットで読んでるから重いとか嵩張るとかそういうことは無いんだけども、逆にめくってもめくっても終わんない。600ページもあるのに、主人公トロムボノクの過去の活躍とか、相棒シェリバンとの出会いとか、そういう面白そうな設定やエピソードが匂わされるだけでさっぱり語られてない。気になって仕方ないって。

次に、読みづらい。主人公と相棒はカタカナだけど、舞台の星、美縟の人や造語が難しい漢字で、すぐに読めなくなるんです。そも、「美縟」って字が難しい。登場人物も「咩鷺」、「菜綵」あたりの読み方をすぐ忘れる。最重要キーワードは「梦卑」なんだけど、なひ?のひ?むひ?どれだっけ?。プリキュアはお話の中では「旋妓婀」です(笑)。終始、こんな感じ。まあ、音を忘れても読めるっちゃ読めるんだけど、頭に入ってこない感じが大分あります。

さらに、お話が初っぱなからぶっ飛んでて良くわからない。特殊楽器技芸士?第四類改変態?野外音楽堂が二千人の人間を巻き込んで大惨事?それって何?観たこともないシーンの連続なので、描写をきっちりと読まないと頭の中にイメージが成立しない。それでも作者や他の読者と描写のイメージを共有出来ているのか、甚だ心もとない。大丈夫かな。私、何か勘違いして読み進めてやないでしょうか?

そんな感じで噛み応えたっぷり。かなりの咀嚼力っつーか、顎の力がないと600ページを読み切るのは難しいです。よほどの本好きにしか勧めらんない。

ただ、まあ、噛んだときに迸る肉汁の旨いこと、旨いこと。

トロムボノクとシェリバンの巻き込まれた惑星をあげての大イベント「大假劇」、そしてそこで演奏される「零號琴」とは何なのか。そこに関わる人々の思惑、そして世界の秘密とは。物語は最初からこの最終幕に向けて進みますが、もうね、唖然とするような結末です。

で、この作品って、ある意味では「ラギッド・ガール」と同じモチーフなんですよ。

ある意味、この上の1行が強烈なネタバレなんですけど、読んでるうちにそんなこと忘れちゃうと思うんでどうでもいいんです(笑)。現実とフィクション世界が重なり、フィクションに自分が乗っ取られていく、AR的というか、VR的というかそんな感じの假劇のあり方からして、人間が訪れることがなくなった仮想空間でのAI達を書いた「ラギット・ガール」によく似てますが、そんななんだか良くわからない世界の崩壊に至るラストの展開ってのが、また、ものすごくてですね。かつ、手触りが似てるんですよね。いやー、凄い話。強烈です。

そして、文章が、また美しい。最後まで読み終えた上で、最初の「アヴァンタイトル」を読み直すと、「ほぅ」とため息をつくほどの美しい文章です。最初に読んだときにはまったく意味わからないんですけど。

「本を読んだー」っていうたっぷりした実感が得られる逸品。覚悟を決めて読んで下さい。


 

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November 14, 2018

ホモ・デウス/ユヴァル・ノア・ハラリ

ベストセラー「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ先生の「ホモ・デウス」が売れてます。どういうわけか、会社で公開読書会なんて開かれたりしてます。最近、うちの会社、ちょっと変。

「サピエンス全史」は切り口が面白いものの、基本的には歴史の本でした。その「サピエンス全史」が切り取った歴史観の元に、人類の未来を見通すのが本作「ホモ・デウス」です。こっちはかなり過激な書物です。

さて、この本、ちょっと見通しが悪いです。なぜかというと、2つのことが主張されているからです。2つは密接に関連しているのですが、私にはあくまで2つのことのように思えます。

1つ目は、この本の本題に入る前の1章(この本は第1部が2章から始まります)で語られます。

人類は、長らく「飢餓」「疫病」「戦争」の3つの解決不可能な問題で苦しめられ、神に祈ってきました。ところが、ふと後ろを振り返ってみると、この3つは解決不可能ではなくなってます。現代において人が飢えて死ぬのは国際紛争や内政の致命的な誤りのような間違ったことが起きているからです。現代において疫病が流行して人がバタバタ死ぬのは封じ込めに失敗したからで、これも誤りが起きたことを意味して、誰かが責められます。戦争は今や際限なく拡大したら地球が滅びるレベルの問題なので、各国は協調してその発生を制御しています。

というわけで、人類は自らの生存を脅かす問題を解決できる目処がついてしまったので、次なる困難に立ち向かっています。これは好むと好まざるとに関わらない人類の性のようなものなので、止められません。そして、ハラリ先生の見るところ、人間は「死ななくて、幸せになって、神のようなものになる」ことを目指すそうです。そして、それらは今のところちょっと目処はついていないけども、テクノロジーがそれを可能にするターゲットに入っているように思えます。そのようにアップグレードされた人間は、もはやホモ・サピエンスではなく「ホモ・デウス」と呼ぶべきだと思えるというのが、1つ目の話です。これが、タイトルの意味です。

さて、この主張を前置きとしてから、本書は2つ目の主張についてのながーい説明に入ります。様々なトピックが語られ、それらが全部面白いんでわっくわくしながら読めばいいんですが、お話の流れを見失ってしまった人、あるいは、こんな長い本、読んでいられんわという人のために、超かいつまんで話の流れを説明すると、こんな感じです。

まず、ホモ・サピエンスと呼ばれる猿が歴史に登場してから数万年後、今から7万年前に突如として世界の支配者になるための資質を身につけます。それを、ハラリ先生は「認知革命」と呼んでます。「サピエンス全史」を読んだ方にはお馴染みですが、あの話がもっかい出てきます。

どーゆーことかと言いますと、サピエンスはなぜか突如として群れを拡大する方法を手にしたんですね。それが「宗教」の発明です。いや、発明というか、進化ですね。自分の群れ以外の同族と共通のイメージとか物語を共有することにより、同じ目的のために行動できるようになったんです。そういう能力を今のサピエンスは生まれながらにして持っている。それが、ネアンデルタールや他の高い知能を持っている動物と、サピエンスの違いになりました。なにしろ、同じファラオを神と崇めることにより、車輪も発明していないのにピラミッドを作ることができるようになったんです。これにより、サピエンスは他の動物に比べて圧倒的な力を手にして、世界中に広まりました。農耕の発明や、文明の芽吹き、産業革命などのイベントよりもっと昔に、サピエンスは決定的な力を手にしたわけです。

このように宗教は、サピエンスの力の源泉です。もちろん、ここでいう宗教はかなり広い意味です。私たちが帰属する集団の一員であることを理由として、理屈を抜きに善悪や正誤の判断をしていることがあれば、それはすべて宗教です。そういう価値判断を生来のものとして受け入れることができ、そのために自己の命を犠牲にすることもできるということが、サピエンスのサピエンスたる所以です。そして、有史以来、紙に書いた聖典を持つ宗教によってサピエンスがその集団を維持し、活動してきた時代がかなりあったわけです。聖書とか、コーランとか、お経とかね。

ところが、科学技術の発展により、神の存在は危うくなります。どうも人類は神が作ったんじゃなくて猿から分かれてきたみたいだし、聖書が書かれたのは神がそれを記したっていう伝承より何百年も後みたいだし、神の教えをどう解釈しても免罪符では救われなさそうだし。というわけで、ルネサンス以降、誰かが「神は死んだ」とか言ったり言わなかったりして何百年か経ち、それが全員ではないからトランプが大統領になったりしているものの、「どうも神様はいないっぽい」ということがサピエンスのコンセンサスになりました。

となると、それに神に変わる何かが善悪や正義についての価値判断をする必要があります。国家主義や帝国主義、資本主義、社会主義、共産主義などなどいろんな宗教がその地位を占めてきたわけですが、現在の流行は自由主義。またの名を人間至上主義です。

人間は個人として自由意志を持ち、己の幸せを追求する権利を持つ。従って、自分が幸せになれることが良いもの。それを阻害するのは良くないもの。ただし、個人の欲求がぶつかるときには、その調整が必要。例えば、男同士がイチャイチャしてる。キリスト教の神が健在であれば、これは聖書にダメって書いているからダメなこと。ところが、人間至上主義では、「彼らがそれで幸せで、誰の幸せも妨げていないのなら邪魔しちゃだめでしょ」が価値判断となります。もちろん、人類が衰退して男女が5人ずつしか生き残っていないというシチュエーションなら「いいから女とセックスしろ」ということになるかもしれないわけで、公共というものは存在はしているわけだけども、それが最優先ではない。そこで「生産性が」とか言い出すと社会的に殺されるという世界を我々はいま生きていて、特に疑問にも思ってません。で、自由意志を持たないもの、例えば人類以外の生命体とか、国家、企業などの法人格よりも、自由意志を持つ個人が尊重されるというのが人間「至上」主義ということの意味です。我々が家畜をヒドい扱いにしている根拠もここにあると。

ところが、科学技術が神の存在を疑問視したのと同じように、科学技術、ことに最近の脳神経科学や心理学、計算機科学の発展は、「自由意志」の存在と価値をも疑問視するようになり始めました。

例えばイーグルマンの「意識は傍観者である」(文庫版のタイトルは「あなたの知らない脳」)はこの辺りを詳しく伝えているスリリングな本です。受動意識仮説と呼ばれますが、私たちは本能的に行動したことをその後で意識的にしたと自分自身を騙すようなことをします。あるいは、人間の行動や情動は並行プロセスですが、それをコントロールする「メインプロセス」が存在すればそれをその人の「自由意志」と呼べるかもしれませんが、どうもそういうものでもないようです。考えてみれば、そのようなモノシリックな構造で素早い行動を取るのは非効率ですものね。ということは、その集合体を「自由意志」と捉えることは可能なのでしょうか。

あるいは、これはちょっと古い説(1970年代に書かれた本です)なのですが、ジェインズの「神々の沈黙」という本があります。この本でジェインズは「二分心」というものを提唱していて、今から3000年ぐらい前までは人類には意識がなかったと言ってます。意識がないと言っても、「意識不明の重体」というような時に使う意識がないということじゃなくて、自意識がないってことです。自分の情動や感情、思考を自分自身のものと捉えていなかったのではないか、つまり「自分」という概念そのものが無かったのではないかということです。これを古代文学(ホメロスとか)を研究することにより思いついちゃったんですね。

古代人は内なる情動を自分とは別の人格だと捉えていたため、古代の文学には「私は怒った」という表現がなく、その代わりに神の存在が身近で、その声を常に捉えていた。つまり、「あいつに騙されて、腹が立ったので殺した」ではなく「あいつは騙しを行った。そこで神は罰せよと私に告げた。そこであいつを殺した」という思考プロセスになっていると。で、そもそもこれは人類の通常の生理学的なプロセスだったんだけども、二つの人格、その原因は右脳と左脳の相同部位なのではないかと考えているんですが、それを統合して扱うことができるという肉体的な変化が人類に起こります。統合された自意識を持つことが生存に有利だったために、3000年経った現代では二分心を持つ人はものすごく少数派になり(シャーマンとか巫女みたいな人は二分心を持ったままの人と考えられます)、つまり人類は新しい形質を備え、進化したという説です。これ、誰も何も証明していないただの説なんですが、あまりに面白いのでみんな気になっている・・・みたいな扱いらしいです。

で、まあ、自意識なんてその程度のもので、サピエンスが効率的に行動するための機能の1つに過ぎず、統合された人格とか、個々人の自由意志なんて仮想的だけ存在するものなんじゃないの、というのが現在の科学の説明するところなわけです。あるいは、人間の幸せなんて、つまるところ脳内に良い感じの化学物質があるっていうことに過ぎないよなんてことは、みんな大好きグレッグ・イーガンの初期作品で散々扱われていること。となると、自由意志と個人の幸せに最も大きな価値観を持つ人間至上主義は、その中心概念を否定されることによって衰退していくのは仕方が無いことです。

読書会でも、人間至上主義、つまりヒューマニズムを否定することは是か非かみたいなテーマが語られて、割と保守的な立場を取る人が多かったみたいです。ところが、人間至上主義の世界から「神至上主義」と言っても良いような中世ヨーロッパみたいな世界を眺めると「いや、社会的機能があることは認めるけども、神なんてあるんだかないんだかよくわからないようなものを価値判断の基準にすると、いろいろと不都合が起きるに決まってるじゃんよ」と思うわけで、どう考えても未来の人類から人間至上主義の世界を眺めたらイケてないに決まってます。デカルト、ベーコン以降の近代哲学がずっと合理的思考や科学的現実と神の折り合いを必死こいて付けてきて、最終的には「いらんだろ、神」というところまで行く歴史をみるにつけ、人間至上主義の行く末も、恐らくは同じようなことになります。「えええ、そんな個人としての人間が尊重されない世界とか、ディストピアじゃん」という暗い気持ちになるのもわからんでもないんですが、「神様が実在しないとか、そんな世の中で生きている価値あるの・・・」と絶望する人に感情移入できないだろうし、つい100年前はバリバリの全体主義国家だった日本人が何言っての的な話ではあるわけです。

さて、問題は人間至上主義の次の宗教はなんだべさ・・・というのがこの本の最後の章になりますが、それはズバリ「データ教」です。ちょっと前まではAIは人間を超えないと思われてました。なぜなら、AIは「意識」を扱えないから。「意識」がない知性では人間には敵わないんじゃないかと思われていたわけです。ところが、どうもそんなことないぞと。つか、人間の「意識」の存在の方が怪しいぞと。意識抜きの知性がゴリゴリ発展して、アルゴリズムとデータで人類総体の幸せを実現してしまうのなら、それが良いんではないか。

ちゅか、人間の活動も、社会も経済も、森羅万象、アルゴリズムによるデータ処理なんだから、それが上手く処理出来ていればそれが善だろう。社会主義に資本主義が勝ったのは、資本主義が人間の個々人の幸せや自由に紐づいていて優れた思想だったからではなく、単に効率的な処理プロセスでうまく全体を最適化できたからだろう・・・という価値判断に基づくのがデータ教です。そして、そのためにはすべての情報はオープンになって誰しもが利用できなくてはならないというのが、その教義です。私は自由で幸せだと内的に認識するのではなく、「私は自由。そして幸せ」とSNSにつぶやいてデータフローの一部になり、世界と一体化することが善ということです。

ピンときませんか。きませんね。うん、まあ我々は旧人類ですからね(笑)。ただ、今私は現実にブログ記事を書いて、「本を読んで感想を日記帳に付けるよりも、ブログに書いてオープンにすることの方が、自分にとっても、世の中に対しても良い行動だ」と漠然と思っているわけですよ。その理由はいろいろあるんですけども、総じて言えば「なんか、世の中そういうことになってきてるらしいよ」ってことに過ぎません。うーん、確かにデータ教の信者かもしれん。

そして、このデータ教、データ至上主義の世界は個人を軽んじます。人類はデータとアルゴリズムに基づいて、ベストな選択と幸せを与えられてまどろんだまま家畜になって行きかねない。ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、データ至上主義はホモサピエンスにしかねません。

いや、これまでの宗教も、ファラオが、法王が、資本家が、独裁者がしてきたことを考えるとデータ至上主義がすっごい悪い未来かはなかなかなんとも言えないわけです。人間至上主義の世界で破壊された地球環境を、データ至上主義が取り戻したとしたら?。そして、そもそも好むと好まざるとに関わらず、データ教に従わないと生きていけない世界は来てしまうかもしれません。個人をないがしろにすることは良くないなあと思いながら、そうじゃないと競争に勝てないもんなあとGPS付きのスマホを営業部員に配って行動を収集し、アルゴリズムで最適化しようとしている経営者を責められるんかいという話です。

さて、そんな世の中きてますねーという観測と思考の末に、ハラリ先生はこの新しい宗教の元での社会や政治や日常生活はどーなんでしょうね。考えてみてね、と言って2つ目の話が終わり、この本も終わりです。あれ、ホモ・デウスどこいった。

でも、まあ、繋がってますわな。データ教の世界で、ホモ・デウスとホモ・サピエンスが共存することになるわけですが・・・一方がもう一方を支配するというような単純な世界でもないですよね。ホモ・デウスの方がデータ教の世界に最適化された種になるということは、えーっと・・・うらやましくない感じは拭えないぞ、となりますし。うーん、それぞれ2つが難しいテーマであるだけでなく、関連まで考えたらだいぶグラグラくる話だな、これは。

というわけで、メインのお話もかなりスリリングで危険思想ですが、枝葉の話もものすごく豊富で面白いので是非読んでみてください。話がモリモリに突っ込まれまくっているんで、今、何の話なのかわかりづらいところもあります。章ごとに整理してくれるので読みづらくはないんですが、見失うことがないとも言えないです。なので、今私が書いたメインストーリーラインを飲み込んで、そっちに行くのねーと思いながら読むといいかもしれないです。


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August 15, 2018

Clean Architecture/Robert C. Martin

アンクル・ボブの「Clean」シリーズ第3弾。「クリーン・アーキテクチャ」については、 ずいぶん前に記事が書かれていて、ググるとそれなりにたくさんの言及があります。

私はこれ、知らなかったです。というか、もしかしたら絵を見たことぐらいはあったのかもしれないですが、この絵を見てもここに何か自分の認識を改めるようなエッセンスがあるかどうかって全然わからないので、特に興味を惹かれなかったんだと思います。

で、この本の結論としては、この記事に出ているこの同心円の図がゴールよってことなんですが、そこに至るまでの道のりが丁寧にきっちり書いてあるので、なんかすごく楽しく、納得もしました。

Clean_architecture_2 そもそもこれが同心円になっている理由なんですが、恐らくは古典的なWebの3層モデルとか、MVCアーキテクチャみたいなものがあったとして、その両端、つまりGUIとDBがいずれも最も外側のレイヤーに来るよというようなイメージから来ているんだと思います。

GUIもDBもI/Oなんだから、それが一番下層であり、上から下への1次元のレイヤー構造で書き表すことももちろんできると思うんですが、わざわざ同心円にしているのはその対比のせいですよね。で、この一番外側GUIやDBが来るのはいいんですが、フレームワークも実装の詳細なんだから、一番外にいるべきだと。むしろ、そうさせないフレームワーク(本書の中では「結婚を迫る」というような言われ方をしますが)はよろしくないと。

それらがぜーんぶ一番外の層に来た上での、上の図のCtrlの中を3つのレイヤーにするぜという話で、じゃあ、そこにアプリケーションがどんなビジネスを体現するかに依らないソフトウエアアーキテクチャとしての3つのレイヤーがあるんですよと言われると、「ほう、それはちょっとすぐには思いつかないっすな」って感じじゃないですか。

で、一番内側はエンティティ。ぱっと考えるとエンティティってデータのことなんで一番内側もデータで、一番外側もデータ。どーすんのって思います。

もちろん、ボブおじさんのいうエンティティは、最も高次元のビジネスルールとそれを体現するデータ構造のことなので、RDBのスキーマ構造とは違うもの。つまり、Railsのようにアプリケーション設計において最も根源的なものとしてのビジネスルールとデータを実装の詳細に過ぎないRDBのスキーマを使って表現してしまうようなアーキテクチャを強いるフレームワークは一番よろしくないものってことになります。

よろしくないとどうなるかというと、変更と保守とデプロイが難しくなるよと。ボブおじさんのいうアーキテクチャの役割は、それらに寄与するため(だけ)なので、逆にRailsはそれと何をトレードオフしたのかって話です。ま、そう言われればそうかな。

というわけで、(本書でももちろん言及されているとおり)このアーキテクチャはコストが高いです。あの同心円ではさっぱりイメージがつかめないと思いますが、本書で示されている典型的なJavaで構築されたWeb+DBシステムの構造はこうなります。

Clean_architecture2_2

かなーりリッチ。

<I>って書かれているのはInterfaceで、なんでこんなにやたら出てくるかと言えば、下位のレイヤーを上位のレイヤーは参照できないから。

例えば、DBアクセスで言えば「こんな構造のオブジェクトにデータ詰めてくれや」とユースケース層がData Access Interfaceを定義し、データアクセスをするコンポーネントがそれを実装して、DBから取ったデータを詰めて返すと。つまり、上位レイヤーをビルドするときに、下位のレイヤーをimportしないよと。そう出来て初めて、下位のレイヤーへの依存がなくなるわけです。

この方法を「依存関係逆転の原則」(DIP)と呼んでいて、この本を通じて、ひたすら何度も出てきます。要するに、DIPのDはDI(依存性注入)のDなわけです。SpringみたいなDIコンテナはお馴染みだし、仕組みも使い方も理解しているつもりですが、私はこのDIPという考え方を理解してはじめて存在意義と、ここでなんで"Dependency"という単語が使われているのか理解しました。はー、なるほどね。

で、とにかくモジュール(ソースファイルの単位ぐらいの意味)レベルでも、コンポーネントレベルでも、アーキテクチャを構成するレイヤーレベルでもDIP、DIP、DIPと何度も何度も出てきます。

そして、考えてみれば今こさえてるシステムでも全然できてないですわ。コントロールレイヤーとビジネスルールを形作るロジックのレイヤーとデータアクセスをするレイヤーとちゃんとレイヤー分割はしているけどDIPはまるっきり出来てないです。

しまいにはボブおじさんは「OOPの存在意義は、ポリモーフィズムを使ってDIPが簡単に実装できることだけだ」ぐらいのことを言い出します。でもまあ確かにコンポーネントを正しく分離するには依存関係がちゃんとしている必要があって、単なるユーティリティクラス以上のものをちゃんと交換可能にするためには、DIPされてないとダメだというのはまったくもってその通りです。

ただ、じゃあ本当にこの通りやるのか、こうならないフレームワークはだめなんかと言えば、それはケース・バイ・ケースってことになります。なんせこのアーキテクチャはコストが高いので。そこでバランスを取って何がベストか見極めるのがアーキテクトの仕事だし、そのベストはアプリケーションのライフステージによって変わるので、アーキテクトは常にコードを書きながら(このレベルで言うならば、コード書かないアーキテクトはあり得ない)、常に見極めていかなきゃならんわけです。

というわけで、ものすごく示唆に富み、なおかつ、読んでいて楽しい(ボブおじさんの昔話もいろいろ聞けるし)本です。そして、特にクラスを分割すべきかどうか、モジュールをどうまとめたら良いのかというレベルの設計方針に悩みを持っている人にお勧め。そのレベルの設計方針が積み上がって、最終的にはクリーン・アーキテクチャへたどり着くことになるからです。

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August 10, 2018

スクラム現場ガイド -スクラムを始めてみたけどうまくいかない時に読む本-/Mitch Lacey

すでにテスト駆動開発(TDD)と並んで常識というレベルにまで普及したスクラム。少なくとも、思想的には普及しましたよね。

どのぐらい実践されているのかとか、どのぐらい成功裏にプロジェクトが完了しているのかとかは良くわかりませんけど、2018年にシステム開発のプロジェクトをしようとするならば、まず、スクラムが開発手法として選択肢に上がらないことはないでしょう。

とはいえ、です。私がスクラムマスターの研修を受けて思ったことは、「スクラムがきちんと出来るメンバーがそろったならば、スクラムじゃなくたってプロジェクトは上手くいくだろう」ということでした。それまでの開発手法は前提として、それなりの能力を持った開発者やリーダーが定められたプロセスをきちんと実行できるならば、プロジェクトはうまく進むのだとしていました。そのため、プロジェクトにトラブルが生じたら「何が出来ていないのか」ということがチェックされました。

で、よくよく考えてみるとそのプロセスというのは、「ちゃんとやる」ことがすごく難しいものでした。例えば、「要件はすべて明確にされる必要がある」とか「リスクは網羅的に把握されなくてはならない」とか。で、トラブったら「漏れてた」「網羅性に問題があった」と言われるわけですが、いや、「すべて」とか「網羅」とか、普通に無理でしょう。無理だったわけですよ、後から言うのは何とでも出来るけども。

それがスクラムになると、「プロジェクトを進める上で障害が必ずあります。チームはそれをみんなで解決しなくてはいけません」「チームには必ず改善すべき点があります。毎スプリント何かを改善していくことによりチームは向上します」となる。「○○をしろ」ではなく「ゴールを達成するために何をするのか考えて、ベストのことをやれ」になる。抽象度が一つ上がっていて、そのレベルでどう行動するのかのルールが決められたフレームワークがスクラムなので求められていることは難しいわけ。だから、開発者にとって魅力的なんだけども。

そんなスクラムなので、「こういう場合はどうしたらいいの?」というケースはけっこうあると思います。もちろん、スクラム自体はそれに答えてくれないケースも多いんだけど、そのようなケーススタディについていろいろ書いてあるのが、この本です。物語仕立てのケーススタディを読むのがけっこう楽しい。

こんなケースについて、ヒントが得られます。

  • プロジェクトを進めるのに必要なスキルを持つメンバーが集められなかった
  • まだ何も始めてないのにいつ出来るか報告しろと言われた
  • チームでいちばんのリーダーと、いちばん仕様を把握している人と、最も優秀なプログラマが同一人物なので、3つのロールを兼ねた
  • TDDや継続的デリバリーやペアプログラミングはスクラムのプラクティスではないのでやらない
  • 毎日デイリースクラムに遅刻する奴がいて、メンバーがキレた
  • 4週間のスプリントでスプリントバックログを消化しきれないので、5週間に伸ばしたい
  • チームの状態が悪く仕事が終わらないから、レトロスペクティヴをパスしたい
  • チームのスタープレイヤーが異動になった。それも、今日。
  • オフショア先の開発者をチームに入れろと言われた
  • プロジェクトをはじめたいが、プロダクトバックログが数百あって、スプリント1でどれをやればいいか決められない

まあ、あるあるっすなー。

というわけで、スクラムをやり始めたら直面するであろうあるあるについていろいろと検討している本です。具体的な手法や、思考のツールも満載ですし、ケーススタディを通じて「スクラムっぽい考え方」を理解できるというのも良い。語り口も軽やかで読みやすいです。良書ですねー。

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May 26, 2018

人間をお休みしてヤギになってみた結果/トーマス・トウェイツ

その昔、トースターを作るのに鉄鉱石を入手するところから始めるプロジェクトで人々を感心させ、そして呆れさせた彼の新しいプロジェクトが届きました。知らない人は、彼のTEDを見れば10分でおおよそ理解できます。

いや、すいません。前作の「ゼロからトースターを作ってみた結果」の方は読んでないんですけど。面白い試みだと思いましたが、1つずつのトピックとしては、まあ、だいたいは知ってるかなと思ったので。

このトーマス・トウェイツさんは、一言で言えば現代芸術家です。彼が研究者やノンフィクション作家だったなら、例えば「トースターはすごく安く買えるが、それは21世紀の文明ありきで、それなしに作るとしたらどうなるのか」ということを調べたら、それについて本を書けば仕事は完了です。数年前に話題になった「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」はそういう本です。しかし、彼は芸術家なのでモノを作らないと意味がありません。

言うなれば、明和電機さんと同じカテゴリーの人ですね。ある思想やテーゼをマシーンとして形にして、人を感心させたり、笑わせたり、呆れさせたりするのが、明和電機。絵画・彫刻に限りませんが、何らかの造形物やパフォーマンスの形まで作り上げるのが、彼らの仕事です。あのトロけたトースターは博物館入りしたそうですよ。

しかしながら、現代芸術家の生活はそんなに楽ではありません。学生時代にトースタープロジェクトがヒットしたこともあって、デザイナーとしてひとまず食うには困らないだけの仕事はもらえているものの、定職もなく、姪っ子の犬を散歩させながら通勤ラッシュの人々をカフェから眺める33歳の男。このままでいいのだろうか。将来が不安だ。この苦しみから逃れたい。

「そうだ、人間をお休みしよう。動物になろう」

いやいやいや、何言ってんのトーマス。しかし、新しいプロジェクトを思いついちゃったから企画書書いてみます。「四足歩行を可能にする外骨格を作成し、草食を可能にする人工胃腸をつくり、脳内の記憶中枢と言語中枢をカットして、<ゾウ>になってアルプスを越える」って、そんなプロジェクトに誰が・・・なんと医学研究支援団体から資金提供が。やるんですか。書いてあることのどれ1つ取っても第1線級の研究テーマだと思いますが・・・。

しかし、そこは芸術家ですからね。やるしかない。芸術家だから、そこに科学的な正しさや新規性、検証可能性などは必要ない。でも、実際に自分でやらないと芸術にはならないわけです。

というわけで、到達しているポイントが表紙の写真です。だいぶ仲良くなってます(笑)。

まあ、申請書に書いちゃったからしょーがないってのもありますけど、相当いろいろやってます。章立てを見ると、彼の真剣さがよくわかります。

  1. 思考
  2. 内蔵
  3. ヤギの暮らし

1章でシャーマンに会いにコペンハーゲンに行き(ゾウなんて馴染みない動物じゃなくてヤギになりなよというこの本のコンセプトに関わる助言をもらう)、2章で神経学者に会いに行き(側頭葉に強磁場をかけてもらう)、3章で動物学者兼義足装具士に会いに行き(延長前肢とハイソールを作ってもらう)、4章で草食動物の胃腸の研究者に会いに行き(ヤギの体内微生物を自分に移植するのは絶対やめたほうがいいという助言をもらう)、最後にスイスのヤギ農家のところに行きます。

行った先で全員に「無理だろ」「死ぬなよ」「取り返しの付かないことになりますよ」と言われながらも、死にたくはないのでなんとか妥協点を探り、粘り強くプロジェクトを進めるトーマス。すごいなあ。彼の学際的な知識欲と実行力はホントに素晴らしい。こんな有能な彼がなんでこんな役に立たないことをやっているのかとちょっと残念に思う気持ちがないでもないけれども(笑)、でも、芸術家として世界中の人々を感心させて、そして笑わせているんだからとっても有意義なことです。

もちろん、四つん這いになってヤギと一緒に草喰んでみても、それ自体から得られることはあんまりないわけです。でも、そこまでたどり着くまでの真剣なリサーチは非常にためになります。哲学的でもあり、科学的でもあり、医学的でもあり、ものすごくプラクティカルな学び(ファンドから資金提供されたプロジェクトを変更する、例えば象からヤギに目的を変えるなどというときには、ちゃんと説明しないとヤバいとか。そりゃそうだろ)もあり。思いのほか、ためになっちゃう本です。全編、彼の軽妙なユーモアたっぷりの文章が続き、ゲラゲラ笑いながら楽しめます。オススメです。

トースターの方も読んでみることにしよっと。


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