劇場アニメ『ベルサイユのばら』
けっこう前の話なんですけど、お茶か何かのペットボトルを買ったら、「ベルばら」タイアップのキャンペーンをやってました。え、今頃、「ベルばら」?あのベルばら???
あの「ベルばら」です。新しい劇場版が作られたんですね。池田理代子原作の、あの「ベルサイユのばら」です。日本人なら誰でも知っていると言って良いでしょう。
と・は・い・へ。わたくし、なんもしりません。この世代か?といわれるとそうでもないでしょうし。妹がいましたから瞳に☆飛びまくりの少女漫画をたくさん読んで育ちましたけど、「セーラームーン」に「ハンサムな彼女」に「天使なんかじゃない」の世代です。池田理代子とはだいぶ距離がある。
知ってるのはですね、オスカルってのが出てきて、この人は男装。フランス革命の話。以上。それぐらいです。
ただ、私の妻、Milueはそこそこ詳しいみたいです。同い年なんだけどな・・・女の子はどこかで通過するものなんですかね?。学生時代の友達と見に行こうという相談をしてたらしいんですが、子供が受験だったりで、どうもみんなと観にはいけなさそうだと。というわけで、お伴いたしました。
ネタバレも別に関係ないだろうと思うので、観る直前にそもそもなんで今これが企画されたのかというようなことをぱぱっと調べました。2015年に「Dance with Devils」というミュージカルアニメを作った人達が、「次は何を作ろうか」と相談して「ベルばらをやりたいね」となったと。なので、この作品は最初からミュージカル前提として作られています。これはね、最初から知っておいて良かった。
で、その認識で観ると、このミュージカル映画はかなりよく出来ている。すごい。想像の10倍ぐらい良かった。ま、初っぱなから「これは普通の劇映画ではないですよー」って気付く作りになってます。なっがーいオープニングの歌を聴けば、まあ、わかりますが、最初からそのつもりで観た方が最初から楽しめます。
でね、これはふつうの劇映画のアニメーションではないってのは、けっこうすごいことだと思うんですよ。あー、えーっと、そういう意味では評価はだいぶ捻れている気がしますが・・・整理しましょう。
まず、演劇のジャンルとしてのミュージカルというものがありますね。「ウェストサイド物語」とか。特になんの説明も必然性もなく、不良が踊り出します。演劇の場合、ミュージカルと対になる概念はストリート・プレイです。とはいっても、演劇の場合にはミュージカルではない、ストリートプレイを観に行っても普通にダンスシーンがあったりします。それは、目の前で役者がパフォーマンスする芸能の持つ強さでもあるわけですよ。目の前で普通にセリフを言っていた役者が、シーンの切れ目でいきなり踊り出してもみている観客は「どうしたどうした、頭がおかしくなったのか」とは思いません。そもそも目の前で行われているものは演技であり現実ではあり得ないわけで、それを役者の魅力によって成立させてしまっているわけですから、逆に歌い踊り出してもいいわけです。その役者に力があれば。歌と踊りがへっぽこだとえらいことになりますけど。
さて、これが映画になった場合、すこし捻れます。なぜなら、映像にはドキュメンタリーというジャンルがありうるからです。演劇のストリートプレイを映画化した場合、それは現実にカメラを持ち込んだように思えます。実際には劇映画はイマジナリーラインを構築して演出されなければ観てる方は大混乱になってしまうのですが、演劇のように観る方向が1方向に固定されるのではなく、カットごとに視線を切り替えていけばあたかも実際にそこで起きている出来事をカメラで撮影したかのような臨場感に観客は晒されます。そうすると、登場人物が突然歌い踊り出したら「どうしたどうした、頭おかしくなったのか」と思ってしまいます。なので、ミュージカル映画というのは「これはミュージカルの文法を映像に持ち込んだものですからね」というお約束の理解が観客側に必要ですし、「必要ですよ」という誘導が映像で行われている必要があります。ちょっと成立が難しくなります。「ウェストサイド物語」の映画は、そこが異常に上手いので伝説になっているって面がありますよね。あの映画を観て「どうしたどうした」って思う人は、だいぶ察しが悪い(笑)
そして、これがアニメーションになった場合、さらに捻れます。そもそも、演劇のミュージカルというのは、目の前にいる役者が作り出す虚構性というものに支えられている面があります。演劇というのはそういう意味ではすごいパワーがあって、役者が棒を一本手に持って、それを上に向けて持って「これは傘で、今、雨が降っています」という演技をすれば、それで成立するんですね。わざわざお芝居を観に来ている以上、そこは合意の上で進んでいけます。だから、「今、私はとても悲しいので、それを表現するために歌います」と言っても成立するわけです。映像作品の場合には、そこを映像上の演出で「今、ちょっとリアリズムのラインから遠ざけるよ」と示す、例えば現実世界にはそこにあり得ないピンスポットを登場人物に当てるなどを行うことにより、「現実あり得ないけど、悲しいから歌うし、聞きたいでしょ?」という観客との共犯関係を結べます。しかし、これがアニメーションになった場合に何が起きるかというと、画面上のすべてのものが現実じゃないわけです。逆の事が起きます。手で書いた絵が、生きた人間なんだってことを、演技や演出の力で観客に納得させないとそもそも物語に入ってもらえないわけです。実写だと「現実っぽいものが踊り出した瞬間、リアリティレベルが下がって観客が置いていかれる」ということが起きますが、アニメでは「絵を頑張って現実の、感情移入可能なものに見せていたのに、歌い出した瞬間その助けがなくなる」ということになります。これはなかなか大変です。
さらに、そもそもミュージカルはなんで踊り出すのかというと、リアリティラインを下げて、登場人物の心情がそのまま歌と踊りに表出することで伝えたいものがあるわけです。役者が「おお、私はいまはっきりと苦悩している!」とセリフでいいだしたらだいぶマズいわけですが、踊るならいいかって話なわけ。でも、アニメーションだったら、モノローグで言っちゃってもいいわけですよね(笑)。そもそも歌う必要がない。BGMでも背景でもなんでも自由に使えるし、漫符を出しても横に変なマスコットキャラ出してもいいわけです。逆に、歌う必然性というものの理由付けをやれという要請が出てくる。だから、ミュージカルアニメというのはすごく希です。一番有名な例は、「アナと雪の女王」だと思います。「ありのーままのー」と歌い出すのは何でなのか。あれは、あの作品がわざわざミュージカルをやろうとしているからです。ディスニーアニメって、ミュージカルやるよねーっていうのは、たぶん観てる人の多くが共有していると思うし、あまりに「Let it go」が有名なので普段ディズニーアニメを観ないひとも「歌うんだろうね」と思って観に行ったのでバッチリでした。でも、それ以外ってあんまりない。
そこで、この「ベルサイユのばら」ですよ。あー、話が長い。ともかく、「ベルサイユのばら」はマンガ原作と最初の出崎アニメ以降には、主に宝塚歌劇団で継承されてきた作品です。漫画もアニメも別にミュージカルになんの関係もないですが、ずっと宝塚でやってるってイメージがついているので、「今度のアニメはミュージカルです」と言っても違和感がない。そして、ミュージカルをやる一番大きな問題は、複雑なストーリーを語ることができないということです。すっごい長大なオペラとかなら話は別ですが、たかだか2時間しか時間がない。予想できることですがレビューサイトなんかでは「ベルばらのストーリーが簡略化されちゃってて酷い!」という感想を書いている人もいるんです。まあ、それもわかる。でも、そもそもが「アニメでミュージカルをやる」ということがメインで、じゃあ、何をやりたいかというと「ベルばら」をやらずにはいられないんだという動機なわけで、それはもうしょうがない。なんなら、オリジナルをやるなら省けない説明を「ベルばら」なら一気に省いても問題ないわけです。だって、超有名作品で、最後にオスカルは死ぬし、マリーアントワネットはギロチンにかけられることは、観に来る全員が知ってる。じゃあ、その2人の気持ちを、ただひたすらに歌ってても成立する。こんな恵まれた作品ないわけで、思いっきり歌と踊り・・・はないから、歌のシーンの映像に全パワーをかけて、「これを観て聞いてー!!」ってやってしまえる。
はい、この作品の鑑賞のポイント、わかってきましたね。じゃあ、そのメインディッシュはどうなのよってことですが・・・これはね、最大級の賛辞を送らざるを得ない。とにかく
歌がめちゃめちゃ上手い
はいはい、オスカルが沢城めぐみで、マリーアントワネットが平野綾。そうでしょうよ。日本のアニメ界の歌が上手い女優の双璧でしょ。
それにしても震えるレベルで上手い。もちろん、沢城さんはトップ・オブ・トップの女性声優で、林原めぐみの後を継ぐのはコイツってレベルの超絶スキルを持つ声優さんですが、声の仕事しかしない林原さんと違って、3割ぐらいは舞台女優。そして、キャラソンを歌わせたら林原さんにはかなわないけど、普通に歌ったら負けず劣らずですよ。このレベルの演技ができて、このレベルの歌唱力はちょっと他にいない。そして、平野さんはもう「涼宮ハルヒ」のキャラソンをやってたとき、まだ二十歳前の頃からそのボーカルはプレスコのアニメが作られるレベル(ハルヒの「God knows...」のシーンのことね。あれ、歌ってる平野さんの映像を撮って、それを参考にして作画してるんですって)で魅力的でしたが、今や、その頃のゴツゴツした荒さなんか微塵もなく、ただひたすら上手い。いまや、平野綾といえば、9割はミュージカル女優ですからね。それでいてもちろん声優としても素晴らしい。今回、4人の主人公のなかでマリーアントワネットだけが唯一大きく成長するキャラクターですが、初登場のシーンとオスカルと決別するシーンでは年齢も内面も全く別人になったマリーアントワネットをここまでくっきり演じ分けてるのはすごい。これはたぶんね、声優経験のない役者さんだと難しいと思う。最終的なフィルムがイメージ出来ている演技。
そして、アンドレとフェルゼンの男性チームですが、フェルゼンがマリーと出会うシーンの最初にフェルゼンの歌がクローズアップされるところ。低音で押さえたマリーよりもぐんと高い、ファルセットかと思わせる高音の歌い出しでぞくぞくぞくっとさせられます。これも只者じゃない。加藤和樹さんという方で、こっちは完全にミュージカル畑の人。テニミュの2.5次元から出てきて、ずっと舞台をやってきてる人。すごい。
加藤さんほどの派手な登場ではないけど、アンドレ役の豊永利行だってテニミュ出身で歌える声優さん。豊永さんはだんぜん声優さんって感じだけどね。
原作の「ベルサイユのばら」はおそらくいっぱい登場人物がいるんでしょうけど、この映画はほぼこの4人に絞ってしまってます。これは明らかによい判断。まあね、正直、この4人が会って話して、それで気持ちを吐露してってだけで話は進んでいっちゃうんですけど、やりたいのは歌なんで問題なし。私的にはね。もちろん、この4人以外のキャラのファンって人は不満に決まってますが、まあ、しょうがない。
そして、歌はもう文句ないというか震えがくるほど素晴らしいので、後は映像。そこも上手いです。ナレーションのところ、歌のところは通常の劇映画パートと明らかに様式が変わります。わかりやすい。それもかなりいろんなパターンの映像表現が出てきます。「ここは非現実」をわかりやすくする手持ちの文法がもともとたくさんあります。例えば画面に枠が出てその周りが花で埋められる的な、漫画的表現は全部使えるわけです。ここもすごく自覚的で、洗練されている。例えば、いきなり手に花を持っていれば、そこはもう劇映画パートじゃないって観ていてはっきりわかりますよね。こういうのがさりげないのから空飛んじゃっているというあからさまなものまで状況に合わせて、背景もフルに使って表現されます。歌ばかりだったら退屈しそうなところですが、けしてそんなことはない。手練れです。
最後に曲が素晴らしくないとだめですが、聞いてすぐわかる澤野弘之さんの仕事です。分厚いマットのような曲で包んでくれます。基本的に同じモチーフで通してるんですけど、曲のクオリティも高い。ただ、さすがに「ガンダムUC」でも、「銀河英雄伝説 die neue these」でも、何度も劇場で聞いた澤野サウンドにちょっとお腹いっぱい感はあります。たまにはギター一本とか、弦楽四重奏とか、そういうのでもいいのにと思うけど毎回分厚いマットが飛んでくるので、映画が終始デストロイモードといいますか(笑)、ちょっと疲れちゃうかなと思いました。でも、まあ、ダレ場がない構成でもないし、せっかくだからグロッキーになるまでマットで殴られるのも悪くないです。
というわけで、ミュージカルアニメの1つの到達点であり、忠臣蔵のようなある種の伝統芸能のようなものでありうるこの作品。むしろ、あまり「ベルばら」に思い入れがないという方にもオススメです。2時間見れば話はだいたいわかるしね。
しかし、あまりにもミュージカルアニメの出来がよかったんで、「Dance with Devils」も観てみるかな・・・ニコニコでPPVが観られるらしいし。
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