劇場アニメ『ベルサイユのばら』

Img_kvけっこう前の話なんですけど、お茶か何かのペットボトルを買ったら、「ベルばら」タイアップのキャンペーンをやってました。え、今頃、「ベルばら」?あのベルばら???

あの「ベルばら」です。新しい劇場版が作られたんですね。池田理代子原作の、あの「ベルサイユのばら」です。日本人なら誰でも知っていると言って良いでしょう。

と・は・い・へ。わたくし、なんもしりません。この世代か?といわれるとそうでもないでしょうし。妹がいましたから瞳に☆飛びまくりの少女漫画をたくさん読んで育ちましたけど、「セーラームーン」に「ハンサムな彼女」に「天使なんかじゃない」の世代です。池田理代子とはだいぶ距離がある。

知ってるのはですね、オスカルってのが出てきて、この人は男装。フランス革命の話。以上。それぐらいです。

ただ、私の妻、Milueはそこそこ詳しいみたいです。同い年なんだけどな・・・女の子はどこかで通過するものなんですかね?。学生時代の友達と見に行こうという相談をしてたらしいんですが、子供が受験だったりで、どうもみんなと観にはいけなさそうだと。というわけで、お伴いたしました。

ネタバレも別に関係ないだろうと思うので、観る直前にそもそもなんで今これが企画されたのかというようなことをぱぱっと調べました。2015年に「Dance with Devils」というミュージカルアニメを作った人達が、「次は何を作ろうか」と相談して「ベルばらをやりたいね」となったと。なので、この作品は最初からミュージカル前提として作られています。これはね、最初から知っておいて良かった。

で、その認識で観ると、このミュージカル映画はかなりよく出来ている。すごい。想像の10倍ぐらい良かった。ま、初っぱなから「これは普通の劇映画ではないですよー」って気付く作りになってます。なっがーいオープニングの歌を聴けば、まあ、わかりますが、最初からそのつもりで観た方が最初から楽しめます。

でね、これはふつうの劇映画のアニメーションではないってのは、けっこうすごいことだと思うんですよ。あー、えーっと、そういう意味では評価はだいぶ捻れている気がしますが・・・整理しましょう。

まず、演劇のジャンルとしてのミュージカルというものがありますね。「ウェストサイド物語」とか。特になんの説明も必然性もなく、不良が踊り出します。演劇の場合、ミュージカルと対になる概念はストリート・プレイです。とはいっても、演劇の場合にはミュージカルではない、ストリートプレイを観に行っても普通にダンスシーンがあったりします。それは、目の前で役者がパフォーマンスする芸能の持つ強さでもあるわけですよ。目の前で普通にセリフを言っていた役者が、シーンの切れ目でいきなり踊り出してもみている観客は「どうしたどうした、頭がおかしくなったのか」とは思いません。そもそも目の前で行われているものは演技であり現実ではあり得ないわけで、それを役者の魅力によって成立させてしまっているわけですから、逆に歌い踊り出してもいいわけです。その役者に力があれば。歌と踊りがへっぽこだとえらいことになりますけど。

さて、これが映画になった場合、すこし捻れます。なぜなら、映像にはドキュメンタリーというジャンルがありうるからです。演劇のストリートプレイを映画化した場合、それは現実にカメラを持ち込んだように思えます。実際には劇映画はイマジナリーラインを構築して演出されなければ観てる方は大混乱になってしまうのですが、演劇のように観る方向が1方向に固定されるのではなく、カットごとに視線を切り替えていけばあたかも実際にそこで起きている出来事をカメラで撮影したかのような臨場感に観客は晒されます。そうすると、登場人物が突然歌い踊り出したら「どうしたどうした、頭おかしくなったのか」と思ってしまいます。なので、ミュージカル映画というのは「これはミュージカルの文法を映像に持ち込んだものですからね」というお約束の理解が観客側に必要ですし、「必要ですよ」という誘導が映像で行われている必要があります。ちょっと成立が難しくなります。「ウェストサイド物語」の映画は、そこが異常に上手いので伝説になっているって面がありますよね。あの映画を観て「どうしたどうした」って思う人は、だいぶ察しが悪い(笑)

そして、これがアニメーションになった場合、さらに捻れます。そもそも、演劇のミュージカルというのは、目の前にいる役者が作り出す虚構性というものに支えられている面があります。演劇というのはそういう意味ではすごいパワーがあって、役者が棒を一本手に持って、それを上に向けて持って「これは傘で、今、雨が降っています」という演技をすれば、それで成立するんですね。わざわざお芝居を観に来ている以上、そこは合意の上で進んでいけます。だから、「今、私はとても悲しいので、それを表現するために歌います」と言っても成立するわけです。映像作品の場合には、そこを映像上の演出で「今、ちょっとリアリズムのラインから遠ざけるよ」と示す、例えば現実世界にはそこにあり得ないピンスポットを登場人物に当てるなどを行うことにより、「現実あり得ないけど、悲しいから歌うし、聞きたいでしょ?」という観客との共犯関係を結べます。しかし、これがアニメーションになった場合に何が起きるかというと、画面上のすべてのものが現実じゃないわけです。逆の事が起きます。手で書いた絵が、生きた人間なんだってことを、演技や演出の力で観客に納得させないとそもそも物語に入ってもらえないわけです。実写だと「現実っぽいものが踊り出した瞬間、リアリティレベルが下がって観客が置いていかれる」ということが起きますが、アニメでは「絵を頑張って現実の、感情移入可能なものに見せていたのに、歌い出した瞬間その助けがなくなる」ということになります。これはなかなか大変です。

さらに、そもそもミュージカルはなんで踊り出すのかというと、リアリティラインを下げて、登場人物の心情がそのまま歌と踊りに表出することで伝えたいものがあるわけです。役者が「おお、私はいまはっきりと苦悩している!」とセリフでいいだしたらだいぶマズいわけですが、踊るならいいかって話なわけ。でも、アニメーションだったら、モノローグで言っちゃってもいいわけですよね(笑)。そもそも歌う必要がない。BGMでも背景でもなんでも自由に使えるし、漫符を出しても横に変なマスコットキャラ出してもいいわけです。逆に、歌う必然性というものの理由付けをやれという要請が出てくる。だから、ミュージカルアニメというのはすごく希です。一番有名な例は、「アナと雪の女王」だと思います。「ありのーままのー」と歌い出すのは何でなのか。あれは、あの作品がわざわざミュージカルをやろうとしているからです。ディスニーアニメって、ミュージカルやるよねーっていうのは、たぶん観てる人の多くが共有していると思うし、あまりに「Let it go」が有名なので普段ディズニーアニメを観ないひとも「歌うんだろうね」と思って観に行ったのでバッチリでした。でも、それ以外ってあんまりない。

そこで、この「ベルサイユのばら」ですよ。あー、話が長い。ともかく、「ベルサイユのばら」はマンガ原作と最初の出崎アニメ以降には、主に宝塚歌劇団で継承されてきた作品です。漫画もアニメも別にミュージカルになんの関係もないですが、ずっと宝塚でやってるってイメージがついているので、「今度のアニメはミュージカルです」と言っても違和感がない。そして、ミュージカルをやる一番大きな問題は、複雑なストーリーを語ることができないということです。すっごい長大なオペラとかなら話は別ですが、たかだか2時間しか時間がない。予想できることですがレビューサイトなんかでは「ベルばらのストーリーが簡略化されちゃってて酷い!」という感想を書いている人もいるんです。まあ、それもわかる。でも、そもそもが「アニメでミュージカルをやる」ということがメインで、じゃあ、何をやりたいかというと「ベルばら」をやらずにはいられないんだという動機なわけで、それはもうしょうがない。なんなら、オリジナルをやるなら省けない説明を「ベルばら」なら一気に省いても問題ないわけです。だって、超有名作品で、最後にオスカルは死ぬし、マリーアントワネットはギロチンにかけられることは、観に来る全員が知ってる。じゃあ、その2人の気持ちを、ただひたすらに歌ってても成立する。こんな恵まれた作品ないわけで、思いっきり歌と踊り・・・はないから、歌のシーンの映像に全パワーをかけて、「これを観て聞いてー!!」ってやってしまえる。

はい、この作品の鑑賞のポイント、わかってきましたね。じゃあ、そのメインディッシュはどうなのよってことですが・・・これはね、最大級の賛辞を送らざるを得ない。とにかく

 

歌がめちゃめちゃ上手い

 

はいはい、オスカルが沢城めぐみで、マリーアントワネットが平野綾。そうでしょうよ。日本のアニメ界の歌が上手い女優の双璧でしょ。

それにしても震えるレベルで上手い。もちろん、沢城さんはトップ・オブ・トップの女性声優で、林原めぐみの後を継ぐのはコイツってレベルの超絶スキルを持つ声優さんですが、声の仕事しかしない林原さんと違って、3割ぐらいは舞台女優。そして、キャラソンを歌わせたら林原さんにはかなわないけど、普通に歌ったら負けず劣らずですよ。このレベルの演技ができて、このレベルの歌唱力はちょっと他にいない。そして、平野さんはもう「涼宮ハルヒ」のキャラソンをやってたとき、まだ二十歳前の頃からそのボーカルはプレスコのアニメが作られるレベル(ハルヒの「God knows...」のシーンのことね。あれ、歌ってる平野さんの映像を撮って、それを参考にして作画してるんですって)で魅力的でしたが、今や、その頃のゴツゴツした荒さなんか微塵もなく、ただひたすら上手い。いまや、平野綾といえば、9割はミュージカル女優ですからね。それでいてもちろん声優としても素晴らしい。今回、4人の主人公のなかでマリーアントワネットだけが唯一大きく成長するキャラクターですが、初登場のシーンとオスカルと決別するシーンでは年齢も内面も全く別人になったマリーアントワネットをここまでくっきり演じ分けてるのはすごい。これはたぶんね、声優経験のない役者さんだと難しいと思う。最終的なフィルムがイメージ出来ている演技。

そして、アンドレとフェルゼンの男性チームですが、フェルゼンがマリーと出会うシーンの最初にフェルゼンの歌がクローズアップされるところ。低音で押さえたマリーよりもぐんと高い、ファルセットかと思わせる高音の歌い出しでぞくぞくぞくっとさせられます。これも只者じゃない。加藤和樹さんという方で、こっちは完全にミュージカル畑の人。テニミュの2.5次元から出てきて、ずっと舞台をやってきてる人。すごい。

加藤さんほどの派手な登場ではないけど、アンドレ役の豊永利行だってテニミュ出身で歌える声優さん。豊永さんはだんぜん声優さんって感じだけどね。

原作の「ベルサイユのばら」はおそらくいっぱい登場人物がいるんでしょうけど、この映画はほぼこの4人に絞ってしまってます。これは明らかによい判断。まあね、正直、この4人が会って話して、それで気持ちを吐露してってだけで話は進んでいっちゃうんですけど、やりたいのは歌なんで問題なし。私的にはね。もちろん、この4人以外のキャラのファンって人は不満に決まってますが、まあ、しょうがない。

そして、歌はもう文句ないというか震えがくるほど素晴らしいので、後は映像。そこも上手いです。ナレーションのところ、歌のところは通常の劇映画パートと明らかに様式が変わります。わかりやすい。それもかなりいろんなパターンの映像表現が出てきます。「ここは非現実」をわかりやすくする手持ちの文法がもともとたくさんあります。例えば画面に枠が出てその周りが花で埋められる的な、漫画的表現は全部使えるわけです。ここもすごく自覚的で、洗練されている。例えば、いきなり手に花を持っていれば、そこはもう劇映画パートじゃないって観ていてはっきりわかりますよね。こういうのがさりげないのから空飛んじゃっているというあからさまなものまで状況に合わせて、背景もフルに使って表現されます。歌ばかりだったら退屈しそうなところですが、けしてそんなことはない。手練れです。

最後に曲が素晴らしくないとだめですが、聞いてすぐわかる澤野弘之さんの仕事です。分厚いマットのような曲で包んでくれます。基本的に同じモチーフで通してるんですけど、曲のクオリティも高い。ただ、さすがに「ガンダムUC」でも、「銀河英雄伝説 die neue these」でも、何度も劇場で聞いた澤野サウンドにちょっとお腹いっぱい感はあります。たまにはギター一本とか、弦楽四重奏とか、そういうのでもいいのにと思うけど毎回分厚いマットが飛んでくるので、映画が終始デストロイモードといいますか(笑)、ちょっと疲れちゃうかなと思いました。でも、まあ、ダレ場がない構成でもないし、せっかくだからグロッキーになるまでマットで殴られるのも悪くないです。

というわけで、ミュージカルアニメの1つの到達点であり、忠臣蔵のようなある種の伝統芸能のようなものでありうるこの作品。むしろ、あまり「ベルばら」に思い入れがないという方にもオススメです。2時間見れば話はだいたいわかるしね。

しかし、あまりにもミュージカルアニメの出来がよかったんで、「Dance with Devils」も観てみるかな・・・ニコニコでPPVが観られるらしいし。

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アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方

「アプレンティス」という、若かりし頃のトランプ大統領を描いた映画を観てきました。

アプレンティスというのは、皆さん、ご存じの通りフォースの暗黒面をつかさどるシスの弟子のことです。ジェダイには、パダワン。シスにはアプレンティス。

この映画はスターウォーズのスピンオフ最新作として、なかなか面白い作品でした。シスの暗黒卿であるコーンに見いだされ、彼のアプレンティスとして悪の教えをたたき込まれるドナルド青年がついにダークサイドに落ち、最後はマスターであるコーン卿を悲嘆と絶望の淵に追いやり、彼の葬儀が行われるまさにその時に肉体改造を受けてダース・トランプとして生まれ変わり、最後は「過去を語るのは好きではない」と自叙伝のライターに語りながら高層ビルからコルサントを眺めるラストシーンは、あまりのいたたまれなさに胸が痛くなりました。我々はこのダース・トランプがこの後、事業には失敗しながらもフォースの暗黒面を駆使して、ついには帝国の皇帝になることを知っているので、複雑な気持ちでした。

・・・という映画なんですよ、ホントに。ホントに改造手術されるの。脂肪吸引とハゲ隠しなんだけど(笑)

今までスターウォーズで完全にシスが主人公の作品というのはたぶんないと思うんですけど(最近はいっぱいありすぎてわからない・・・)、もし、あったらこんな作品かなと思います。ノワールものっぽい。つまりは、マスターのロイ・コーンもアプレンティスのトランプも、完全に悪人。悪辣っぷりでむしろちょっと面白い。

アト6の宇多丸さんのムービー・ウォッチメンを聞いて観に行くことを決めたので、どういう映画なのか、登場してくる人物がどういう人達なのかはある程度理解していきました。宇多丸さんの映画評を聞くまではロイ・コーンという人自体を知らなかったのですが、たぶんこの映画を観に来るアメリカ人はみんな知っているレベルの人みたい。映画の冒頭で、初めてロイと対面した時に、「え、あのロイ・コーン?(The Roy Cohn?)」ってその辺のアパートの家賃回収してるレベルのトランプが聞き返すぐらいだから、有名なんですね。だいたいは悪い意味で(笑)。

なので、宇多丸さんの映画評は聞いていった方がいいかも。史実だし、「この人、このあとなんと大統領になります」が最終的なネタバレみたいなものなので、ネタバレ気にする必要は全然ないです。

でも、この後はラストシーンの感想を書いちゃうんで、一応、ちょっと空間をあけとくね

 

 

 

で、このロイ・コーンが、まあ、わりぃ奴なんですよ。トランプに悪いこと教えるの。「絶対に非を認めるな。負けも認めるな」みたいな。現実歪曲フィールドを伝授するんですよ。ただ、コーンはゲイを弾圧するくせに自分もゲイで、そのせいもあるのか、ハイソでおしゃれで美学があるんですよね。クソ野郎なんですけど。ちょっと格好いい。

ところが、トランプはコーンからフォースの暗黒面の使い方を教わって、皆さんご存じのあの攻撃方法を使いまくってむちゃくちゃしまくるんだけども、勝負の亡者みたいになっちゃって肉親に無駄なマウント取りに行ったり、ネゴらなきゃいけない相手にブチ切れちゃったり、マスターの美学は受け継いでない。投資を広げすぎて、コーンに「ちょっと考えろ」って言われるんだけど、聞く耳を持たない。ばんばんカジノを作ってどうだってコーンを招いて自慢するんだけど、本物を知ってるコーンからすると出てる食事とかがビンボくさい。間違いなく一番有名で力も持っている最強の弟子なんだけど、なんか失敗した感がある。

時代はちょうどAIDSが大問題になっていたころで、コーンも彼のパートナーもAIDSの合併症を発症しちゃう。より症状が重いパートナーを助けてやってくれとコーンはトランプに頼みに行くんだけども、トランプは適当にあしらって助けてくれない。教えたとおりのクソ野郎にはなってるんだけど、美学がない。最後、パートナーも死んじゃって、コーンももうすぐ死ぬ(この人、最後の最後まで自分はガンだといいはって、AIDSであることは認めない。みんなもうわかっているのに、絶対に認めない。そういう人)という時に、トランプが最後に連絡してくる。誕生日に自分のフロリダの家に招待したい。これが、仲直りの最後のチャンスだし、失敗作ではあるけどこれが自分が最後に作り上げた弟子だし・・・と招きに応じるコーン。ただひたすら豪邸を自慢するトランプ。最後にカフスをプレゼントしてくれる。高そうだけど、「Trump」って書いてある。すげぇダサい。誕生日パーティの席で出席者に「これ、イミテーションの安物よ」と言われる。ダサい上に、ケチってる。情けない。ホストのトランプのスピーチで持ち上げられて、返しのスピーチでコーンは言葉に詰まる。雰囲気として、トランプを誇りに思うと言わざるを得ない。言いたくない。コーンはトランプを嫌いじゃないし、彼をフックしてこう仕上げたのは自分。良いところも悪いところも嫌と言うほど知っているが、自分が最期に残したのがこれなのかという絶望感に囚われている。なんとか、絞り出してひとこと、ふたこと喋ったところで、誕生日祝いのケーキが出てくる。でーっかい長方形の星条旗がデザインされたケーキに花火が刺さってる。

ダサい

もうね、バカにしてこれやってんのか、マジでこれでコーンが喜ぶと思ってるのか、わかんないんだよね。だって、車椅子でしか移動出来ない病人なんだよ。もうどうみてもすぐ死ぬのよ。この時代のAIDSは不治の病だからね。その人にこのケーキって・・・

ここでこのケーキ見て、ロイ・コーン、泣いちゃうんだよ。絶対に負けを認めないって、自分がAIDSであることも頑なに認めないって言ってる人が、泣いちゃうの。せつなーい。もうね、このシーンはマジで辛い。こんな絶望あるっていう。でも、トランプたぶんわかっていないっていうね。いや、すごいシーンですよ。どこまで史実かわからないけど、このシーンを作った監督はすごい。

もうね、こんなペラッペラのクソ野郎がアメリカ大統領なわけですよ。情けなくて泣けてくるよね。ラストシーンは、伝記を書くために呼ばれた記者がトランプに「あなたの人生、伝記になりませんよ。読者が読みたいものがない」って言うので終わるという。ペラペラだからね。それを、彼を題材にした映画のラストで言うという・・・。ふーっ、なんというか、切り口がすごい面白かった。

観て気分がいい映画ではあんまりないんだけど、まー、独特の後味なんで、これはこれで。とにかく、これを企画して撮って公開したのはマジですごい。観て良かったです

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機動戦士Gundam GQuuuuuuX Begining

「THE FIRST SLAM DUNK」を思い出します。スラムダンクのファンが何も知らないで劇場に行ってアレを見せられる体験を重視して、宣伝としてはマイナスなのを覚悟して事前情報をまったく出さず。実際に鑑賞してそれを感じ取ったファンが自分も一切のネタバレをさせず「とにかく見に行って!」と言いまくる・・・というのが、そのときの現象でした。

アレからおよそ2年

今度はガンダムで同じ事が起きました。GQuuuuuuXですよ。読めないんだよ、そもそも。

新しいガンダムが発表されたことは知っていました。ここのところのガンダムはやりたいことがちゃんと分離されて、整理されて進んでいる気がします。ガンダムに新しい血を入れるための新しいシリーズである「鉄血のオルフェンズ」「水星の魔女」は、「あの花」から続く人脈の流れで手堅く評価される作品を生み出しているし、宇宙世紀に心を囚われたままのオールドファン向けには「UC」から続く流れとして「閃光のハサウェイ」「ククルスドアンの島」が出てる。新しき古典、スタートレックでいうところのTNGとしての「SEED」は念願の続編劇場版が作られました。全方向のガンダムファンに、絶え間なく何かしらが提供されています。運営が立派になりすぎて供給過多で死にそう。

そんな中、発表されたのが新しいテレビシリーズであるGQuuuuuuX。公開されたビジュアルイメージからは、「水星の魔女」に続く「間口を広げる」作品の枠に見えました。絵柄的に最初、「TRIGGERがやるのかな?ガンダム・グレンラガン?」てな感じに受け取って「水星の魔女よりは好みなのかなあ・・・」とぐらいに思ってました。

テレビ放送に先立ち、前半の数話を劇場公開にするという話をチラッと聞きましたが、それも特に気にしていませんでした。最近はそういうお商売が盛んですわね。そしたらtwitter(X?何それ?)でちょっとした騒ぎになっているじゃないですか。曰く、「ガンダムを見に行ったら、ガンダムがはじまって混乱した」と。どゆこと?

20250122-115401公式サイトでアナウンスされているストーリーはこれです。こう紹介されてる映画を見に行った人が「とりあえず、最初の『機動戦士ガンダム』のファンだと思っている人はすべからく観に行った方が良い」と言う。そりゃもう、完全に何か仕掛けられてるってことですよ。

 

というわけで行ってきました。

 

 

やりたい放題


やりやがって・・・

 

そうきたかー。いや、これは盲点。これだけ「ガンダム」を翻案していろんな作品が作られてきたけど、これは一番ありそうで無かった奴だわ。

というわけで、ネタバレして感想書きますけど、映画はじまって最初のカットから仕掛けがはじまるという映画なんでネタバレなしでは何にも書くことありません。以下は、劇場に行ってからみてください。いつからTVシリーズが放映になるかもわからない生殺し状態になりそうなんで、気になっている人はとっとと行こう!

 

 

 

 

 

 

さて、ネタバレしますよ。

いまや、「エヴァの会社」というより「シン・○○の会社」というノリのスタジオ・カラー。大ヒットしたゴジラと自作自演のエヴァで「シン」ブランドを確立して、ウルトラマンやって、仮面ライダーやって、ヤマトもやる。正直、ウルトラマン以降はそんなに大きな話題にもなってませんし、私も正直、世代じゃないのでピンとこないんですが、エヴァはさておき、彼らは一貫して「大好きだったあの作品の、でも観られなかったアレ」を作ろうとしています。観られなかったのは、当時の技術ではムリだったのか、演出として選ばれない選択肢だったのか、制作者と趣味が合わなかったのか、まあ、いろいろあんだろうと思いますが、そういうことですね。

そういう意味で、今回の作品の前半は「シン・ガンダム」。で、ガンダムでやりたい「観られなかったアレ」っていうのは、えらく細かい歴史のif。パンフによると、元々は、鶴巻さんのところに「ガンダムやりませんかー」という話が来て、「こんなのはどうですか」と返したのが架空戦記ものだそうです。

たぶん、もう今の若い人はわからないと思うんですよね、架空戦記。私が子供の頃はまだけっこう元気だったんですよ、荒巻義雄の「紺碧の艦隊」とかの、太平洋戦争で「もし、○○だったら」って奴。ただ、私ですらそうですが、今の人は太平洋戦争の史実も知らないですから。知らないと架空戦記面白くないから。

でも、ミッドウェー海戦もラバウル航空隊もルンガ沖夜戦も知りませんが、ルウム戦役や第13独立部隊、星一号作戦なら知っているのが我々の世代。これをベースにした架空戦記ものは成立します。いや、そもそも「機動戦士ガンダム」自体が架空戦記ものだと言っていいわけですから、架空の架空なんですけど、それだけにまだやってなかった。「ガンダム」でパラレル展開、例えばテレビ版と劇場版で結末が違うとか、小説版は話がそもそも全然違うとかはありましたけど、「あそこで仮にこうなっていたら、歴史が変わっていた」みたいなものを正面切ってはやってません。そこで、鶴巻さんが「ジオンが勝つ世界線の話」はどうだと提案したと。アバンタイトルでシャアがサイド7でガンダムの強奪に成功するのを描いて、結果、ジオンが勝った世界での物語はどうか。ダメじゃね?って思ってたけど、意外なことにサンライズはOKを出した。

そこに「アバンじゃなくてもっと膨らましたら・・・」ということで庵野秀明登場(笑)。そもそも「赤いガンダムにシャアが乗る戦記物」をやりたいなーと思っていた庵野さんが、あっという間に映画1本分ぐらい、かつ脚本レベルに詳細なプロットを書いて持って来たと(笑)。というわけで、それをがっつり削って、今回の映画の前半部分が出来ました。つまり、前半は「シン・ガンダム」になっちゃってんのよ。

最初のカットから、コロニーのデザインやモビルスーツのデザインは変わっているものの、ナレーションのセリフ、BGM、レイアウトまで全く「機動戦士ガンダム」の冒頭と同じ。「ガンダム大地に立つ」のタイトルテロップとSEまで同じ。ただし、タイトルは「Beginning_。鈴置さんの声が聞こえるのは空耳(笑)。もうね、ここまでで「や、やりやがったーーーー!」ですよ。隣で観ているMilueが「これってアレよね、だよね」という顔でこっちをチラチラ見てくる(笑)。Beginningか。ガンダムでビギニングって言えば、「めぐりあい宇宙」の劇中歌だもんな。「そして時がすこーやかにぃ〜」ですよ。

もうね、ここからは言いたいことだらけ。あのセリフはこっちで言うのかとか、あそこでガンダムにやられちゃうあの人がこっちで生きてるのかとか、ホントに「ビグザムが量産のあかつき」きちゃってんじゃんとか、詰め込みに詰め込まれていて何度見ても楽しい映像。これ、TVでもやってくれるのかなあ・・・。録画して50回ぐらい観たい。

ここまで、「マジで?マジで?」って思いながら楽しんだわけですが、色々あってシャアのガンダム無双によって歴史は変わり、ジオンと連邦は休戦して、本編は0085のサイド6が舞台です。

で、「シン・ガンダム」のところはいいとして、後半のGQuuuuuuXも含めて考えると、これってターンエーっぽくもある。たぶん、わざわざ歴代ガンダムの要素をつっこんでる。冒頭のザクの侵入シーンはガンダム第1話まんまなわけですが、実はΖガンダムの第1話はまさにこのガンダムの第1話のオマージュで、でもガンダムではそこにいなかったシャアがサイド7(グリプス)に潜入するってのをやっているので、シャアがいるガンダムの第1話はΖガンダムの第1話のオマージュでもあり、どっちでもやったモビルスーツに接触したコロニーの一部がデブリになってコロニーから出ていく描写ももちろんやる。隕石落としがオカルトで阻止出来ちゃうのはもちろん「逆シャア」を踏まえているわけだし、0085パートで軍警察のザクが青で塗られていて、エグザベが尋問されて殴られたり、改札を飛び越えたニャアンとマチュが接触してそれを米津さんが主題歌で歌うところまではΖオマージュだし、ジャンク屋が出てきちゃったらΖΖガンダムじゃんだし、サイド6内部にペガサス級が入港しちゃったらそれ0080でしょだし、クランバトルは「頭部を破壊されたら失格となる」ってガンダムファイトじゃん(笑)。まあ、わざとですよね。

これが単なるオマージュとファンサービスなのか、黒歴史をどうにかしようとしてるのか(笑)はわかりませんけど、

> そして、世界は新たな時代を迎えようとした

は、なんか格好いいこと書いてあるだけなのか、マジで新しい時代を迎えちゃうのか。この世界をUCガンダムのラストで亡霊となってゆらゆらしてたアムロとシャアとララの3柱(笑)は、どうしようとしているのか。つか、ハロがいるけどアムロはバンダイのおもちゃ事業部に就職してしまったのか(笑)。鶴巻さんなので、そこらへんはほどほどにちゃんとマチュとニャアンの話を描いてくれるとは思いますけど、それと、Beginnigしちゃったところがどう世界に影響して、それがこの子たちにどう影響を与えていくのか。架空戦記ものだとすると、シャアのひらめきがこんな形で影響しちゃって、世界はこうなっちゃったよというのが、0079に留まっていては面白くないし、全然正史と違っていても面白くないわけですから、どう絡んでくるのか。

やー、どうなっちゃうんでしょうなあ

とりあえず、大仕掛けで大笑いはさせてもらったんで、観に行ってとても満足です

 

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マイケル・マン監督の「フェラーリ」を観た

ちょっと前の話ですが、近所の劇場公開の最終日に慌てて観てきました。マイケル・マン監督の「フェラーリ」
本題はエンツォの私生活なんで、とっても昼ドラというか昼ドロドロというかそんな感じなんですが、中で描かれるレースが2024年のレースファンからみると、もう異次元過ぎてすごい。
とにかく、危険。いわば、キケン。あえて言えばデンジャラス
スターリング・モスがドライバーとして出てくるのでF1でいうとどのぐらいの時代感なのかはなんとなくわかります。フルフェイスのヘルメットはおろかシートベルトもない世界なのでとてもキケン。F1的にはなんとなくカーボンモノコックが出てくる前の70年代の方が人が死にまくったイメージがありますが。とはいえ、それってサーキットレースの話。
「フォード vs フェラーリ」が64年のル・マンを描いていますが、それよりもっと前の1957年のミッレミリアがこの映画のクライマックス。このミッレミリアはイタリア語で1000マイルレースのことで、街から街へ公道を1000マイル走っちゃう。北部のブレジア(いにしえのスクーデリア・イタリアの本拠地らしい)からローマへ南下して、またブレジアまで戻っちゃうんだって。
それ、もうラリーじゃん。ル・マン走ってるみたいなツーシーター・オープンプロトみたいな車なのになあ。
だから街中もガンガン走るし、湖畔もガンガン走るし、マジでモナコラリーみたいなつづらおりの山道も走る。ちなみにスタート時刻は真っ暗。そらそうなるわな。で、そんな山道で接触してライバルがコースアウトして車が壊れたら、接触したもう一台の車がマシンを止めてリタイアしたドライバーを隣に乗せて走る(笑)。ホント?史実?こんなレースを昔はやってたの?
世界観が今と違いすぎる!

で、このレースがどうなるかは完全なネタバレなのではっきりは書きませんが、史実なんでWikipediaとか調べてみて下さい。はい、このレースはこの年で中止になります。そら、そうよ。
こんな時代にレースをやってた人が、ホンダがF1でガンガン勝ちまくってた80年代まで生きてたってことに驚いちゃう。それぐらいなんかもう、別世界でした。わけがわからなかった。すごいな、自動車レースの歴史って。なんか、勉強になった。
で、昼ドラの方は最後に「ここに出てきたピエロくんが、フェラーリの副社長になるよ」って字幕が出てきて「あー、たまにピットにいるおじいちゃんがこの子か」ってなります。人生いろいろですね

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ミッション:インポッシブル デッドレコニング Part One

トム・クルーズによるミッション:インポッシブル最後の作品となる前後編の前編。見てきました。

これはね・・・評価が難しいです。この映画はどう評価されるべきなのか。

第1の観点として、単純にこの夏休み一番の娯楽大作として。とても面白いです。

世界中をロケ地にして、アクションに継ぐアクション。どれもが一級品。世界中どこに言ってもほぼ全員英語をしゃべる良くできたアトラクションの数々。あんまり細かいことは考えずに次から次へと押し寄せる映像にただただ翻弄されていれば至極のひとときが味わえます。なんとなく複雑そうなストーリーも、「ただひたすらみんなが鍵を奪い合っている」というアホみたいな設定をなんとなくカッコよく見せるためだけの演出で、わかんないところは「なんかわかんないな」と思ったまま観ていて全然OK。さすがにその理解で観ているには今回の上映時間は長すぎる(けっこう途中退席する人多かったんですよね。膀胱の限界だったんでしょうね)と思いますが、短いよりはいいよね。

第2の観点として、後世に名を残すアクションの金字塔になりうるか。これはね・・・ムズい。

この作品が間違いなくそれを目指していることは確かです。なぜなら、わざわざ観たことがあるシチュエーションを選んでやっているから。オープニングは、わざわざ「アラビアのロレンス」風に砂漠に馬を走らせる。続いてカーチェイスをわざわざローマでやる。なんならわざわざ黄色のフィアット500を登場させて、トレビの泉の周りをグルグル回る。パーティー会場に乗り込んで敵と対決するなんて20回ぐらいみたシチュエーションもわざわざやる。それも、ベニスで水路を船で移動させるし、地下鉄に轢かれそうになるシチュエーションも入れる。そして最後は列車、それもオリエント急行の屋根の上で対決させる。

これ、全部どこかで観たことがある奴。なんなら、全部「スターウォーズ」シリーズの中だけで同じシーンが見つけられる奴(笑)。それを、できる限り特撮なしの本気の撮影で、今の技術をフル動員して、たっぷりの時間と予算をかけて撮る。つまり、アクション映画はこれ1本だけ観ればいいというショーケースを作ろうとしている。

いやいや、正気の沙汰とは思えません。すごいことを考えるなあ。で、その目論見はおおよそ成功していると言っていいでしょう。作ろうとしてるものが「アクション映画のショーケース」なので、そりゃストーリーはご都合にならざるを得ません。でも、ここまで踏まえると、このご都合ストーリーはその制約の中でめちゃめちゃ頑張ってるとは思います。

とはいえ、ですよ。良くできたショーケースであることは認めますが、観たいのはショーケースなのかと言われれば、うーむ・・・と。拍手喝采で、「こりゃ面白い最高の映画だ!」とは言いがたい。ただ、最初から「伝統芸能を観に来た」としたならば、これはもう「良いモノを見せていただきました」と満点つけて帰るしかないんじゃないかと。なので、極端なことを言えば、小演劇を観に来たと思ったら能を観せられた的な戸惑いはあります。おお、こういう映画なんだねと。伝統芸能だとしても、「トップガン」は他に現用戦闘機でのドックファイトなんて映画は他に誰も撮ってないので気にならないんですが、今回のは、なあ。

ただこれ前後編なので、前半が「過去のショーケース」で後半は「未来のアクションの提案」だという可能性がありますな。だとすると、後編を見終わった時にはそれも踏まえて満点ってことになっているかもしれません。いや、後半が「ショーケース増補版」である可能性もあるんで、まだなんとも言えませんけど。

で、最後に1本の劇映画としてみると・・・ストーリーはまあ、酷いモノです。全てがご都合主義。

ちょうど生成AIが一斉を風靡していて「やっぱイマドキ戦う相手はAIっすかね」なんて趣きもありますが、撮ってるのは数年前(撮影中にコロナ禍に突入したらしいからね)なわけで、今回暴走したAIが仇役なのは単純にイーサンチームにコンピュータを自由に使わせたらアクションをするまでもなくイーサン達が目的を果たしちゃうからです。それはすっごくわかりやすく提示されていて、最初のアブダビの空港のシーンではイーサン達のハッキング能力でイーサン達に対抗する勢力はほぼ無力化されちゃうよってことが示されます。なんせ敵はイーサンを見つけることすら出来ない。

ところが、ここにより強いハッキング能力で介入されてこのやり方では解決できない。つまり、今回もトム・クルーズは全力疾走せざるを得ないよ、という舞台設定が示されます。ここまではすごく上手い。

ただ、こうしたんだったら今回は60年代にはなかったテクノロジーは使えないという前提でやらせてもらいますよーってコトにすればいいのに、微妙にテクノロジーを使う。「今回はネットワークを使わないと出来ないものはなし!」にすればいいのにそこをわざと曖昧にするので、何は出来て何は出来ないのかがわからないし、ハッキングしてきている主体がその謎のAIなのかAI一味、今回のラスボスのガブリエル君なのかがよくわからない。そこがはっきりしないので、今、絶体絶命の危機なのか、ハッキング能力でどうにか出来るシチュエーションなのかがわからず、ちょっとそこは残念でした。一番「あちゃー」と思ったのは、途中、イーサンをサポートするために運転中の車を自動運転に任せてコンピュータをいじり始めるシーン。いや、ネット上の悪のAIと戦うのに、自動運転の車に乗ってはいかん。自殺行為だろ。

巨大AIの暴走っていう話にも面白い奴いくらでもあるわけで、その辺の味付けはほぼなーんにもなく、ただ、USBメモリじゃなくてわざわざ鍵の形をしたものを奪い合うだけというのは、なんだかな。まあ、いいんですけど。

というわけで、なかなか評価の難しい1本。ただ、アタマからっぽにしてみれば楽しめるし、後から引用・参照されることがメッチャ多そうな気もするんで、お嫌いでなければ観に行って損はないかなと。

 

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THE FIRST SLAM DUNK

「スラムダンク」のアニメが劇場版としてリブートすると聞いて、「ああ、それはいいなあ」と素直に思いました。が、「まあ、観ないだろうけどな」とも。「スラムダンク」ほどの名作を眠らせておくことはないわけで、Bリーグもなんか盛り上がってきてる訳だし、もう20年以上前の作品だし、頃合いだろうと。「銀河英雄伝説」のリブートにも付き合ってますしね。やはり、技術の進歩は素晴らしい。

でも、不良の桜木花道がまともにバスケし始めるまで物語的にはだいぶかかるわけで、最初から観るのはかったるい。「スラムダンク」を観たことがない若者が楽しんでくれれば良くて、古くからのファンにとっては「Not For Me」なんじゃないかと。いや、私はそれほどのファンという訳でもないのですが。ジャンプ読まないんですよ。中高とバスケをやっていたこともあって、完結してから読みました。

ところがですよ、まさにあの頃ファンだった人達が観たいものが実は作られていたっていう。それを公開まで完全に隠してて。たぶん観た人の評判でちゃんと伝わるだろうという計算なんでしょう。なんてリスキー。なんてわがまま。これはね、観に行かないとダメですよ。逆に「スラムダンク」を読んだことない人はちょっと微妙かもしれない。読んでから観に行ってもぜんぜんいいかもしれない。もちろん、読んでなくてもすごく面白く観られるとは思います。最初はちょっと不親切かもしれないけど。いきなり「こいつら、誰?」って感じになりますが、でも、バスケの試合見に行ったとして、普通は選手全員の名前知らないから大丈夫だよ。それぐらい、いきなりバスケの試合に魅了されます。

そうなんですよ。試合が凄いの。3Dアニメって今、ここまでいけるの? びっくり。アト6で宇多丸さんが「これはアメコミの映像化としての『スパイダーバース』に対する日本のマンガの映像化としてのアンサーかもしれない」って言ってましたけど、ホントに凄い。本当にバスケの試合を観てるみたいだけど、ホントの試合なら絶対に観られないアングルがあるし、実写では絶対出来ない演出が入ってくるし。これをどうやって作っているのか、ホントに気が遠くなる。だから、「スラムダンク」知らなくても、なんならバスケ知らなくても、凄いことはわかるし、ちゃんと感動出来ると思う。それぐらい凄い。

でも、そんなことより、この作品は、あの頃ファンだった人達が「こういうのが観たいな」と思っていなかったけど観たら「これだよ」としか思えないものが作られているというのが凄い。でも、それが何かは言えない。ここまで秘密にしてきたものを書くわけにはいかない。まあ、もう公開されて大分経つし、私も、噂を聞きつけて「えっ?そういうことなの?じゃあ、観に行かないと」となって観に行ったんだからいいのかもしれないけども、とりあえず、もしここまでを読んで気になったら観に行って。すぐ行って。絶対その方がいいから。

「いやいやいや、信じられんでしょう。いいよ、言ってよ。聞いて、へーって思ったら観に行くから」という人のためと、ネタバレの感想を書きたいからとの理由で、もうこの下に書いちゃうよ。ネタバレバリアー!

 

 

 

 

いいかな?

 

つまりね、こういうことです。「スラムダンク」のファンにこう言ったら全員、「えっ?」ってなるじゃないですか。

宮城リョータを主人公にした山王戦を、CGアニメで井上雄彦が納得するレベルの動きにしました

なにそれ、観に行かないわけないじゃん。山王戦?りょーちんが主人公?プレイはCG作画?まあ、そりゃそうだ。井上雄彦が納得するレベルで動かすにはそれしかありえねぇ。でも、本当にできるの?モーションキャプチャで動かしたら、今までのアニメとノリが繋がらなくなるんじゃない?あ、だから声優全取っ替えなの?マジかよ。ホントにマジなんだな。そんなの、いくら金がかかるかわからない上に、見た目地味で儲かるかどうかわからんけども、それでもやるんだな。そうだよな。言われてみれば、その通りだよ。

観たかったの、それだわ

いやあ、最高だったー。泣いたー。湘北に入ってよかったー。いや、入ってないけど、もう、なんか入ったわ。これはね、ホントに凄い作品ですよ。こんなアニメ観たことないですよ。気が遠くなります。

あとね、音が最高。ホントに体育館にいるみたい。とりあえず、劇場に観に行っとけ。

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RRR

話題の「RRR」を観てきました。

観てないんですけど「バーフバリ」の評判は耳にしてましたし、その監督がとんでもない予算でとんでもないサイコーの映画を作ったというじゃないですか。いろいろと耳にする評判のどれもが「サイコー」という感じなんで、こりゃ行っとくかなという感じで。

うん、こりゃ凄いね。すっごい。

観る映画、観る映画これだとちょっと困っちゃうけど、なんだろう。月に1回ぐらい元気になるために観てもいいかもしれないぐらい。いや、3時間あるから観るの大変ですけども。とにかく、主人公2人はナイスガイでめちゃめちゃ強いし、悪役のイギリス人どもは1人を除いてホント最悪だし、死ぬほど人が出てくるし、豪快だけど構成は練りに練られてて、すっごい。

誤解を恐れずに言えば、見終わった感覚としては劇団新感線の「五右衛門ロック」を劇シネで見た感じ。荒々しくて、音楽も激しくて、歌も踊りもあって、ベタで熱い芝居と見栄があって。あれを

 

100億円かけて作った

 

感じ。7200万ドルだからね。劇団新感線の何百倍なんだっていう(笑)。エンドロールもずっと踊ってて、終わったらイマドキ珍しく拍手が起きました。そう、観てる感じが映画と言うよりお芝居なんですよ。そんな凄いもの、観に行かない理由はないよ。面白いに決まってるでしょ。

インドの独立闘争の話なんでセンシティブな面はありますし、インド映画界のいろんなもろもろな事情とかもあるらしいんですけど、そのへんは宇多丸師匠の劇評とかを聞いてもらうとして、とりあえず公開されてるウチになんとか行っておくべき。見終わった後の、客席のなんとも言えない、おかしなもの見ちゃったぞという「にへらっ」とした雰囲気まで含めて是非味わうべきです。

あと、前半のクライマックスであるダンスバトルシーンは、これはもうインド映画といえばコレっていうものの最高な逸品で、どうしようもなくすごい何かで、劇場に行く前に観ていってもそのシーンになったら「あー、これかー。キター」になってネタバレでも何でもないので、下の町山さんのツイートでリンクされている4分半のこのシーンを全部観ていってなんら問題はないからインド映画よくわかんないぞ勢は今すぐみて「なんじゃこりゃー」ってなってください。よろしく。

 

 

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トップガン マーヴェリック

「トップガン」という映画が公開されたのは1986年。まだ私が小学生のころ。テレビで見たことあるのかあ・・・。オープニングの部分だけ知っているだけなのかなあ。F-14はカッコイイよなあ。サントラはめちゃめちゃかかってたし、私もレンタルショップで借りて聞いたなあ。

そんなおぼろげな記憶なもので、特別に「トップガン マーヴェリック」にも思い入れはないんです。が、毎月模型誌を買っていれば「このビッグウェイブに乗せられて踊らない手はない」とは思うじゃないですか。ちなみに、モデルグラフィックス誌がF/A-18E特集をしたのが2020年の6月号。本来はその頃に公開予定だったんですねぇ・・・もう2年前のこと。私もハセガワの1/72のキットをずいぶん前に買ってあるので、これを作るモチベーションを上げるためにも、観に行かなければなりません。

と、その前に普通に続編ですから、前作を見ておかなければなりません。Amazon Primeにあったので、前日に観ました。

いや、こりゃ酷い映画だな!

当時も映画自体の評判はよくなかったような記憶がありますが、ぺっらぺらです。「もしかしたら小学生の頃に観ているんだけど、飛行機しか観ていなくて、オトナ向けのストーリーはすっかり忘れてしまったのではないか」と思っていたんだけど、これは忘れようがないわ。いや、むしろ何を覚えておけばいいかわからない。ともかく、主役のトム・クルーズは何か一言二言話してニコッと笑うか、悲しい場面では悲しそうな顔をして何も言わないかとどちらかしかしておらず、周りの役者が必死に補っているだけなので、彼の何が問題で、どう克服していこうとしているのかがまーったく伝わらない。

でも、止めの絵が格好良くて、トムキャットが格好良くて、音楽が格好良いから、なんか全体としては「良い感じのポエムみた」みたいな気持ちになるのはわかる。それにしても、これは21世紀では通用しないペラペラさだな!まあ、でも、こんなもんだったよ、当時の映画。トム・クルーズと言えばモータースポーツファンのひよこだった当時に友達と「デイズ・オブ・サンダー」を劇場に観に行った記憶がありますが、「クソだった」ということ以外、何にも覚えてないもんな。

さて、気持ちよく往年のダメ映画を心に秘めた上で、観てきましたよ。

ちゃんとしてました(笑)。いやあー、ちゃんとトム・クルーズの抱えた問題もわかるし、対人関係の問題もわかるし、仕事上のチームの問題もわかるし、世界の問題もわかるし、それがちゃんと絡み合って解決していく作りになっています。ちゃんとしてるぅ〜

その辺がちゃんとしてれば、「トムと飛行機と音楽が格好いい」というオリジナルの良さは何も失っていないので、もうほぼ100点の映画でした。MCUみたいに社会問題とか取り込まないので、もうすっきりしたものです。というか、86年にはミグを撃墜したけど何でなのかはぼやかしてるみたいな感じだったのが、湾岸戦争とイラク戦争を経て、きっぱり「ならず者国家の軍事施設を先制攻撃する」と言って侵略しちゃうんで、「ちょっ、おまっ!」って感じではあるんですが、「まあ、これはミッション:インポッシブルと同じ、トム時空だ」と割り切って観るのでいいかなーみたいな、一種何かを超越したようなそんな感じのするバカ映画です。これはこれで、あり。

というわけで、だいぶよろしかったので、是非観に行って下さい。そして、見終わったら、この下のネタバレ部分を読んで下さい

 

 

 

 

いいかな?

 

やっぱり言いたいのは、「最後のアレはなんだ!」ですよね(笑)。ずーっと前半から敵国の施設を破壊するミッションをずーっとやっていて、ミッションは成功するも、事故で失った親友の息子を庇って、主人公は撃墜されて死ぬ。普通の映画はそれで終わりです。

が、死んでない。死んでないどころか、どうにかして敵基地に侵入して、どういうわけか稼働状態で武装までされているF-14を奪って、敵戦闘機とドッグファイトして、撃墜して帰還する。

んな、アホな。

途中からスターウォーズになったのかと思った。でも、オビ=ワン・ケノービとアナキン・スカイウォーカーのコンビでも、フォースとR2-D2の助けなしにはそんなことは出来ない(笑)

いきなりここからのシーケンスで映画の知能指数がぐっと下がるワケですが、でも、あまりにあんまりなご都合主義なんですけど、不思議と嫌な気持ちはしないんです。それはたぶん、このシーンに向けてちゃんと「リアリティ」の調整が行われているからなんです。

事ここに至ってから思い返せば、冒頭のシーケンスでトムは高々度のマッハ10でのテストフライト中の事故でも(なぜか)ひょっこり生きていて「どういうわけか、死なないヤツ」という称号を得ていることが示されました。ここで、ちょっとギャグっぽい「不死身感」を見せておく。その上で、敵がなぜか最新鋭の戦闘機とおんぼろF-14を一緒に保有しているだの、チラチラと「怪しい気配」をちりばめる。そうして、「そんなわけないんけど、F-14が飛ぶところも観たいよね」「そんなわけないけど、せっかくのお祭り映画なんだから誰も死ぬところを見たくはないよね」という観客の「ワガママな願い」をストーリーの整合性をうっちゃって見せちゃうので、嫌な気持ちにはならないんです。言うなれば、ミュージカルのラストで役者が敵味方も関係なく楽しそうなダンスをして終わっても、誰も「んなわけあるかーい」とはツッコまないのと同じ。だから、なんだか妙な爽快感のある映画です。

しかし、じゃあ、それはオリジナルの「トップガン」の続編に相応しいのかというと、「トップガン」はむしろ幻想的なまでにリアリズムであり、戦闘機に乗ってるのにむしろたいしたことが起こらないのがリアル・・・みたいな謎テイストの映画なわけで、オリジナルと続編はまったくテイストの違う映画になっちゃってるのは否めない。本当の本当にオリジナルの「トップガン」が好きだった人がこれを手放しで喜ぶのかは疑問である・・・けど、まあね。オリジナルはクソ映画なんで(笑)、オリジナルを継いじゃいかんのは間違いないんで、これで正しい。

ま、とりあえず、これでF/A-18のプラモデルを作り始められます。よかよか。

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スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム

公開と同時に良い評判と、ネタバレ情報が入ってきてしまってたので、慌てて1/14に観てました。感想書いてなかったんで、書いとかないとね。

でも、これもネタバレなしには何も書けないんですよね。まあ、もう公開から1ヶ月ぐらい経ってるし、気にするような人はもう観てて、観てない人は今更文句を言ってもしょうがないでしょう。というわけで、以下、ネタバレアリで書きます。

 

 

 

いいよね?

 

 

さて、この映画がなんなのかというのを理解するには、結構メタ知識が必要になります。ある意味、めっちゃマニアックな映画。うーん、まあ、知っているつもりのことを書くけど、私も別に詳しいわけじゃないんで詳細は各自調べてください。

まずは、スパイダーマンのマルチバースに関する知識ね。2019年に「スパイダーバース」ってアニメ映画がありましたが、それを観たときに学びました。アメコミって結構カオスなんで、いろんな人がいろんなスパイダーマンを書いていたりしますよと。で、成り行きでそうなってるんだけども、それをまとめるためにそれらの世界はすべてパラレルワールドですよとしました。他の作品でも、スピンオフ作品とかを作る時にはよくやりますね。そこまではいいんだけど、じゃあそのいろんなスパイダーマンが一堂に会するとすごくない?っていう危ないことを考える人がいるわけです。で、「スパイダーバース」はそんな作品で、今回の「ノー・ウェイ・ホーム」もそれ。

ただし、じゃあなんで「ノー・ウェイ・ホーム」がマルチバースにならないといけないかなんですが、ここに映画のスパイダーマンのややこしい歴史が関わってくると。まず、マーベルさんは、貧乏だった時代にソニーにスパイダーマンの権利を売ってしまってます。で、ソニーではサム・ライミの「スパイダーマン」と、リブートした「アメイジングスパイダーマン」の2つのシリーズが作られてます。ところが、「アメイジング」が興行的にイマイチだったところにMCUが絶好調のマーベルから、「アベンジャーズにスパイダーマン、貸して?」と言われOKします。ただし、その新しいスパイダーマンで単独作品出すときは、ソニーで配給はするからねという約束です。というわけで、「シビルウォー」にトム・ホランド演じる映画3代目スパイダーマンが登場したと。

そんな感じで、MCUにも出るし、「ホームカミング」という映画も作られて愛された3代目ですが、そもそもがアベンジャーズのメンバーとして準備されたんで、あえてシリーズでスパイダーマンにその死をもってヒーローの覚悟を与えるベンおじさんを設定せず、アイアンマン=トニー・スタークがその役をするという大胆な設定になりました。というわけで、MCUの大きな区切りになった「エンドゲーム」でトニー・スタークは死に、「ファー・フロム・ホーム」では「スーパーヒーローであるアイアンマンの後継者として苦悩する若きヒーローであるスパイダーマン」という姿が作られました。これは、「黒人でありながら、星条旗を背負うキャプテンアメリカの後を継ぐことを求められ苦悩するファルコン」と対になる設定で、なかなか唸らされます。

ところが、ここでソニーからマーベルにストップがかけられて、続きが作れない状況になります。ここからは私の想像になりますけど、「スパイダーマンをアベンジャーズに貸してくれと言われたからOKしたけど、アベンジャーズのリーダーにするとなるとちょっと話は別だぜ」ということになったんじゃないかなと。それはちょっと思ってたんと違うんやけどと。それは「貸して」で済む話かって事になったんじゃないか。スパイダーマンってのは「親愛なる隣人」であって、ご近所ヒーローで、アイアンマンの後を継いじゃいかんだろうと。で、揉めました。

というわけで、当初の構想は修正だ。「ファー・フロム・ホーム」で「私がアイアンマンだ」状態になったのをなんとか巻き戻さなきゃいけない。そのために偉い人達と脚本家達が頭を絞って考えたのが、「そうだ、ドクターストレンジに魔法でなんとかしてもらおう」だと(笑)。この経緯からソニーとMCUの協働案件になっているんで、「ドクターストレンジが状況を戻そうとするんだけど失敗して、ソニーとMCUごちゃまぜ状態の世界崩壊お祭り映画になり、なんとかして元に戻す」という構想が生まれた・・・というのが、私が妄想する、この映画がこういう映画になっている理由です。

その難しい案件を考えると、まあ、この映画の出来は素晴らしい。間違いなく面白いし、その状況を逆手にとってよくこんなに魅力的なシナリオを作ったなと感心せざるを得ません。そして、この新しいMCU版スパイダーマンのシリーズの魅力もしっかりと出ています。ずっとスパイダーマンのシリーズを見てきた人にとって、あるいはMCUと付き合ってきた人にとって、こんな心にしみる映画はありません。

とはいうものの、MCU版スパイダーマンシリーズしか観ていない人、あるいは、この映画だけを観た人にとってはちょっと問題のある作品であることは否めません。

そもそも、ヒロインを演じているゼンデイアが「ピーターとMJの2人がハッピーにならないこのエンディングは気に入らない」って言ってるとおり、後味は良くないですわ。3部作で考えるなら、2作目でピーターとMJの関係に問題が生じて、最終作で解決しないといけないのに逆になっちゃってる。さらに、今回の状況はスパイダーマンがストレンジに任せとけばいいのに自業自得で引き起こしたようにも見える。まあ、それは「スパイダーマンはヒーローとして未熟」ってのがMCUの中でずっと提示されてるし、高校生なんでしょうがないとも思えるんだけど、今回はその結果がかなり悲惨なので観ていて辛いというのがある。そして、スパイダーマンを元に戻すということは、もう一回ベンおじさんが死ななきゃいけない。その結果、人気キャラクターのメイおばさんが死ぬことになっちゃった。これが、どうしても「必要だからこのキャラここで死にます」ってのがみえちゃうんで観客に理不尽な印象を与えちゃう。

というわけで、私はこれは間違いなく「ある種の達成」だと思うし、そんな状況をメタに取り込んだ作品として1つ上のレイヤへの奥行きを感じさせる素晴らしい作品だと思うんですが、それはまあ、バックグラウンドをある程度知っているからであって、庵野秀明と90年代のエヴァを知っていて「シン・エヴァ」を観るかどうか問題なわけです。この作品だけ、あるいはMCUのスパイダーマンだけを観ると、これは作品として成立しているのか・・・と思わなくも、ない。ただ、前作の「ファー・フロム・ホーム」からして「アベンジャーズ/エンドゲーム」を観ていなくて成立しているのかというとそうは思わないし、「アベンジャーズ/エンドゲーム」を観るためには13本ぐらいその前に観ておかなければいけないんで、それは言ってもしょうがないんじゃないのかなと(笑)。そのぐらいが要求されてるんなら、ついでにソニーのスパイダーマンと「スパイダーバース」も観ておいたらいいんじゃないかと。

でも、そんな作品を手放しで「いい映画」って言っていいのかってのは、思いますよね。うん、難しい。でも、見事な技を見せられたんで、私は満足。そんな感じで!

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シン・エヴァンゲリオン劇場版

正直、もう完全に忘れてましたし、私の中では終わってました。いや、そりゃそーでしょ。「Q」って2012年ですよ。今更、やるよと言われても・・・

とはいえ、観ないという選択肢もない。しかも、どうやら評判は上々だ。というわけで、公開初日は避けーの、かといって、最初の週末も避けーのってことで3/11(木)の17:00に日比谷のIMAX。前日に、発売当時に買ってシュリンクも破いてなかった「Q」のブルーレイを観ておさらいです。

・・・いや、それにしても「Q」はホント、さっぱりわからないね。こりゃ、覚えてないのもムリはないな・・・。

あまりにさっぱりわからないので、「シン」がいきなり「Q」とはまったく無関係の何かであっても不思議ではないと思ってましたが、思いっきり「Q」の続きからだったので逆にびっくりしました。

さて、「破」の感想で以下の様に書きました。

もともと、テレビ版のエヴァは途中入り組んではいますが、大きく4つのパートに分けられます。

  1. 大怪獣活劇(代表的には6話)
  2. 楽しいキャラアニメ(代表的には9話、13話)
  3. 90年代的カタストロフアニメ(代表的には19話)
  4. キャラクターの存在意義を問うメタアニメ(代表的には20話や25話)

「破」は2番目と3番目が取り上げられてます。4番目の要素は最小限に抑えられています。また、テレビ版との大きな差として、今回は碇シンジの物語になっています。テレビではアスカ、ミサトも主人公扱いでした(レイはまたちょっと違う扱いですな)が、今回はアスカやレイは「シンジを取り巻く人達」として描かれていて、その内面的な葛藤は主題とされていません。

次の「急」あるいは「Q」が、まさに俺たちの観たいエヴァかもしれません。そういう意味では、楽しいエヴァはここまでかもしれないんだぜ?(笑)

で、「Q」はほぼ、3番目と4番目だけで出来ているようなものでした。あからさまなメタ描写こそないものの、荒廃したネルフ本部は完全にこの世のものではなくなってます。いくら何でも、ゲンドウと冬月、アヤナミ(っぽいもの)とカオルだけしかあそこにいないわけないし、天井もないあんなトコロにピアノ置いておけるわけないし、まあマジックリアリズムというか、村上春樹っぽい不条理さというか、既に半分以上、ストーリーが放棄されてます。

そして、すれっからしのエヴァファンはよく理解しているように、エヴァにおいては理解できなくなったら理解しなくていいサインです(笑)。それは「主人公であるシンジがわけのわからない状況に追いやられているので、当然、観てるあなた方にもわけはわからないのです」ということで、親切な庵野監督はそういう場合には登場人物に「わからないよ」とか「おかしいですよ」とか言わせるので、そうなったらおかしな事になってるんだなと思えばOK。とにかく「Q」は「やれっていうからやったらちょっと楽しくなってきたのに、なんかいつの間にか酷いことになったのはお前のせいだと周囲から責められまくり、まったくわけがわからず、そんな中でも唯一『頑張ればなんとかなるよ』と言ってくれた人のことを信じて頑張ったら、マジで超ヤバいことになってわけもわからず茫然自失」という心理状態を執拗に丹念に100分かけて書いただけの話なんで、まあ、わけがわからない。大変ですわ。

それを受けての「シン」は、ついに「得意のメタ視点」全開。線画でるわコンテでるわ実写でるわという旧劇場版要素に加え、ついには(CGで作った)ミニチュアセットでるわスタジオでるわTV版のテロップでるわの大盤振る舞い。いやあ、エヴァだねぇ(笑)。エヴァみてる気がしてきた。

というところでこれ以上のネタバレはマズかろうということで、以下は観た後でお読みください。いや、まあ、ネタバレされて面白くなくなるような話でもないけども。なんせ、ストーリーは例によって半ば放棄されてるからねぇ・・・。

 

 

 

 

 

 

さて、今回意外なのは「Q」であれだけ精神的に追い込んだシンジのトラウマを回復させるパートがあったこと。これまでメタアニメパートは、精神的に追い込まれたシンジ(や、旧作的にはアスカやミサト)の狂気と救済を描くためにあったわけだけども、今回のシンジくんは田舎暮らしで回復して、元気です。あれ?じゃあ、誰が・・・ってゲンドウかい。というわけで、なんか最後、話の主人公がゲンドウに移ってしまいます。

「破」あたりではゲンドウとシンジの関係が旧作とは違っている描写があって、今回のゲンドウは単なるわけのわからない状況装置ではない感じになってたんですが、「Q」ではその当たりはガン無視だったんで・・・。ただ、ストーリーの構造上はラスボスの位置にいるんだから、作劇的にはまったく正しい。いやー、今回のゲンドウさんはラスボスだったわー。ゲンドウさん、自ら動くタイプだと思ってなかったからびっくりしたわ。ゲンドウさんが甲板に自ら降臨なさるあたりから、TRIGGERのアニメになったのかと思いました。まあ、今石監督もたぶん関わってはいるんだろうけどさ(笑)。

というわけで、「なぜ、わざわざ追い込んだシンジを回復させるパートを必要としたのか」というのがこの映画の本質なんだろうなと思います。なぜなら、そこがTV版や旧劇場版と最も違うところだからです。ゲンドウさんがひとつ目になっちゃったのは、たぶんこの変更の副産物だと思います。そこは・・・やっぱり庵野監督の経験もあるんだろうし、今日はたまたま311の日ですけど、震災から10年の間、多く語られなければならなかったトラウマと回復の記憶も無関係ではないんでしょうなあ。

もちろん、大きく観ればこれは24年前の呪いに満ちた劇場版と語っている内容は同じだし、正直、「またその話ですか」感はなきにしもあらずです。実際、ファンの中には「そういうメタアニメ的な観念的な部分は抜いて、謎と伏線とアクションとストーリーと世界観が美味しいエヴァを見せてよ」という期待がある程度、あったと思います。少なくとも「序」はそういうアニメだったし、「破」の段階でもその範疇に収まる可能性はまだありました。ただ、「Q」「シン」と見終わって、まあ、エヴァはこれだなって感じは(しぶしぶながら^^;)あります。作り物の世界、人と人とが向き合うことを避けた世界と現実世界の狭間を突きつけるという意味では変わってませんが(また綾波でっかくなってたしな)、「輪になって『おめでとう』」に比べれば圧倒的な祝祭的雰囲気に満ちた映像は、何か大きな違いを感じさせるものでした。

いや、しかし疲れた。長い。アクションのボリュームが凄いからお腹いっぱい。ともあれ、長い間お疲れ様。ウルトラマン、期待してるぜ。

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