機動戦士ガンダム GQuuuuuuX 感想 そのに
せっかくなので、「クライマックスにむけて」で提示したポイントを振り返ってみますか。
(1) マチュとニャアン
狂犬よばわりされてたマチュですが、最終回でシャリア・ブルによって端的な評価が語られます。やりたい事をやって、それによって自分が損したり不利な環境におかれても、決して人のせいにせず、後悔せず、ただやりたい事をやる人物。それでいいじゃないと。「それがニュータイプ」とか言ってますけど、それはたぶん言葉のアヤで(笑)、鶴巻さんはマチュをそういう人物として書きたかったし、もちろん幼い危ない面は多数あるんだけど、それは周囲の大人が守ってあげればいい事で、若い奴はそれでいいと思うよってメッセージされてて、それはきっちり描かれててよかったですね。マチュは1年戦争という悲惨な現実からちょっと離れた恵まれた世界にいて、恵まれているという自覚もあんまりない。でも、恵まれているんだからワガママ言うなっていうのも違うでしょう。違うと思ったら行動すればいいでしょう・・・というのは、今の恵まれた日本に閉塞感を感じている若者に対するストレートな物言いですよね。あたしゃもう若者じゃないんで、このメッセージがどう響くのかはわかりませんけど、好感はもってます。逆に「このワガママ娘に共感できない」って声も多く見かけて、まあ、それがこの日本の閉塞感だろって作品は言ってるんだから、そういうことだわな。
ニャアンに関しては、マチュに対比させられているわけですが、マチュが「恵まれてないニャアンがもがいてる戦いも、恵まれている私がもがいている戦いも、どちらも等しく戦いだろう。ニャアンの戦いを否定するものか」といい、2人がMAVになって最後の戦いに赴き、ニャアンはその言葉に救われるというのもよかったなと。こういうこと言ってくれるからニャアンはマチュにずっと憧れてたんだよね。
で、結末はEDみたいになるんだろって予想してましたが、ラストカットで着てる水着が干してあるので「みたい」じゃなくて、EDはまさにラストカットの後みたいだね(笑)
(2) ガンダムにおけるオカルトの存在
オカルトくるよ、で、イオ・マグヌッソがゼクノヴァを意図的に起こす装置、これはキシリアの意図通り。でも、その意図を超えた状況になるはずーって予想しました。ストーリーの構造上、そうなるに決まってるんですが、イオ・マグヌッソがぱっくり割れてキシリアが「これ知らない。シャアがこっそり仕込んでたのか。ちくしょう」ってなってましたが、知られないでできるわけあるかーい(笑)。ここは無理矢理ですね。で、その意図を超えたオカルトにより問題の元凶であるシャロンの薔薇を送り返そうと思ったら、向こうから恐怖の大王が来ちゃうっていう、これもわりとよくみるテンプレですよ。
問題は何がくるのかですな。手に負えないほどのラスボスということで、「こいつしかいないだろ」と予想されてた方もいるみたいですが、私はまったく想像してませんでした。あのシルエットが見えたとき、大爆笑しました(笑)
私はこの作品を架空戦記、あるいは歴史改変SFだと思っていて、このジャンルでは別に正史とは別の歴史があることの理由(シャアがガンダムをダッシュしたから、ということじゃなくて、なんで正史と違う別の歴史が存在しうるのかという事)を説明する必要はないんですが、ララァが「シャアが死ぬ夢を見まくる」って言った時に、「あ、そっちじゃなくてマルチバースにするってこと?」と思って意外に感じました。まあ、マルチバースの方が馴染んでる人が多いし、間口は広いかなととは思いました。マルチバースにすると、その間は移動出来るのかって話に当然なるので(ならないとマルチバースにする意味が無いからね。完全に独立してて干渉できないならただの歴史改変SFだから)、「誰が移動しているんだ?」って考えるとシュウジとシャアになるわけですよ。まあ、そうなるよな・・・と。
ただね、最終回を見てもゼクノヴァで消えたシャアは再び現れるまでどこで何をしてたのか、シュウジは何者でどのユニバースのどのタイミングでシャアと知り合ったのかはさっぱりわからない(制作側が決めてるのかどうかも怪しいよね・・・)んで、「その設定いる?」みたいな気持ちだったんですけど、まあ、RX-78-2を呼び寄せようと思ってんならしゃーないわな(笑)。ここは雑だなーって思うけど、まあね、オカルト部分だからね。細かい事をいってもしょうがない。
で、この作品のオカルトは実はゼクノヴァでもなく、概念としてのRX-78-2(巨大化するのはこいつがリアルな存在じゃないよという意味があるわけ。いや、ラスボス感の演出ってのもあるだろうけど)が並行世界(=パロディ作品)を自らぶっ潰しに来るというメタな感じで、「オモシローイ」って感じですよ
(3) ガンダム VS エヴァ
10話のラストではガンダム VS エヴァだったんですが、その後「アルファ殺しが揃った」と言われると。ここでいうアルファ殺しって何かと思うんだけど、単純に「ガンダムとエヴァがアニメ界を席巻したよねー。リードしたよねー」って意味なんだろうね。そうやって派生作品を含むシリーズ総体としてのガンダムの象徴としてのジークアクスと、エヴァンゲリオンで世界を制したカラーを象徴するガンダムであるジフレドが戦うのが、「出来損ないの別ユニバースはゆるさーん」と襲ってくる初代ガンダムという構図で、10話ではVSかと思ってたら違いました。
しかし、わざわざ古谷徹に「これ以上、ララァが死ぬのは見たくない」って言わせるの、「いい加減、アムロとシャアとララァってネタをこすってんじゃねえよ」っていう自虐な台詞になってて、なんかアンビバレントな思いがあるんでしょうね(笑)
(4) ヒゲマン、あるいは緑のおじさんの戦い
最終回を踏まえて考えるとこの作品にはいくつかのレイヤーがあって、一番下(あるいは上?)のレイヤーはマチュとニャアンのストーリーで、そこはすでに言及した通り。
その次にくるのが、架空戦記としてのガンダムifのレイヤーで、そこの主人公はシャアとシャリア・ブル。アムロがいない世界を作って、この世界が物語的に何を意味するのかを語らないと架空戦記の真の面白さ(例えば、太平洋戦争の架空戦記だったら「結局、日本軍あるいは日本人ってこんな奴らだよな」を書きたいとか)にはつながらないと思うんで、そこはどうするのかなーと思っていたら、なんとそこはあんまりなにもなくて(笑)、アムロに関わったせいで不幸になったランバ・ラルやガルマ・ザビ、シャリア・ブルそしてシャアとララァがそれなりに自分の幸せを見つけました。オレは幸せなこいつらを見たかったんだよ・・・みたいな感じになってて「おおぃ、マジかよ。でも、なんかこれはこれでガンダムファンの夢の1つではあるな。アリか」って感じです。緑のおじさんの戦いは、シャアでもザビ家でもなく、アルテイシアを立てれば平和になんじゃねだった。これはこれでなるほどって感じ。
で、ついでに書いておくと、この上にエンディングロールに役名が記載されない3人の声優がやった役のレイヤーがありますと。この人たちはガンダムUCでもう神様みたいになってたんで(笑)、リアルを超越したなにかでいらっしゃいます。このレイヤーのララァがこのユニバースの創造主でした。
そして、創造主ララァを殺しに来るさらにその上のレイヤーの存在のシュウジ(笑)。シュウジ意味わかんないんだけど、ここはもう完全にメタな世界ですね。なんせ「概念としてのガンダム」に乗ってくるんだから、シュウジはもう完全にこの下のレイヤーの人にとっては神。マチュは神にあらがい、最後、神の恩寵を得るわけだ。これは恋なのか?ちがうくないか?で、このレイヤーに対して行ったことは、巨大に膨らみトリコロールすら失った概念としてのガンダムの首をはねる(クランバトルに勝利する)ってことで、たぶん、鶴巻さんも「こんなんガンダムじゃねぇ」って言われまくるだろうと思いながら作っていて、そういう批判に対して「うるせぇ」っていう姿勢が、巨大ガンダムの首をジークアクスがはねるって絵に象徴されんだろうね。
ふう。そのさんは書かなくてもいいかな。というわけで、最終回予想に紐付けて語りましたが、もう物語のつじつまとかだいぶわけわかんなくなっているわけですが、それぞれのレイヤーで何を書きたいのかなということをちゃんと勘案して、それを絵にしたらこうなっているんだよということが読み取れればOK。鴻上尚史のいうところの「起承転結など犬に食われろ」という奴で、ちゃんと場面で何がメッセージされているのか読み取る。それはホントに作者の意図通りかはわかんないんだけども、メッセージや気分やそういうもろもろを画面に出して、それを我々が受け止めて感じ取るってことが鑑賞ってことなんで、そういうもんだぜ、つじつまがあっていることより大事なことがあるんだぜって感じすかね。ま、つじつまなんて画面に勢いがあればどーでもいい気になって感動しちゃいますけど、それはわりと本質的なことなんすよ。こういう感じで構造をちゃんと整理すると、「なるほど、面白いな。まあ、ここから何を読み取るかはお前とは違うけど、読み方はこういう感じなのか」ってみなさん思うんじゃないかしら。
あーおもしろかった。
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