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「機動戦士ガンダム GQuuuuuuX」 のクライマックスにむけて

いやー、面白いですね、ジークアクス。一年戦争を題材にした架空戦記物としての「シン・ガンダム」と、そしてそれを下敷きにしたスタジオ・カラーらしい「ジークアクス」のどちらのパートもとても面白く見ています。これは10話まで見て、あと2話を残すところというところで、クライマックスを見るポイントをまとめておきたいと思います

(1) マチュとニャアン

恵まれた環境にありながら「不自由さ」を感じてもがくマチュと、恵まれない環境から抜け出したくてもがくニャアン。どちらのもがき方もとても不器用ですが、よく見れば対照的な環境にいる2人がお互いのことを受け入れたり、拒絶したりする物語が「ジークアクス」のメインストーリーだと考えると少女マンガなんかでわりによくある話をやっています。要するに、いろいろあってグレて学校に行ってない不良少女と、本当にやりたいことがわからずなんとなく優等生をやっているイライラ少女の出会いですから、よくあるよね。そういう話をじわじわやりたいがために、「サイド6のこの地区はだいたい21世紀の日本みたいな文化のところ!」として、現代日本を舞台にしちゃってます。学校も、神社も、電車もすごく現代日本。そうすることによって、この定番の構図をリアリティを持たせて描いてます。これが宇宙世紀の高校生の話にしちゃうと、その時代の女子高生が何に悩んでいるかなんて我々にはよくわからないし、なにより見てる女子高生が共感を持てません。そして、その世界に「ガンダム」があるという面白さを入れられるわけです。つまり、この話は「ガンダムの世界に、現代日本みたいなところがある」のではなく、「現代日本にガンダムがいる」話にしてるんですね。少なくとも、2人の少女の世界はそう作られている。怪しい闇バイトをしたり、フラフラしてる美大の学生みたいなあんちゃんと餃子を作ったり、3者面談で大げんかしたり。

となると、まずはこの2人の物語をどうするのかということになります。いろいろなオチが考えられます。でも、EDがああいう映像なので、ああなるんだと思います。さて、10話のラスト、2人が自分の世界を手に入れつつあり、それぞれの属する社会の論理で衝突するところまでもってきましたが、2人はどうやって何を捨てて何を手に入れるのか。まず、これがこの話の中心であるというのは忘れちゃいけないところです。そして、あのEDからわかるとおり、シュウジはこの2人の世界には人格を持った主体としてはたぶん関わらないわけですな

(2) ガンダムにおけるオカルトの存在

富野さんの作るガンダムには、ストーリーのクライマックスにでっかいオカルトが入ることが多いです。そして、それがいわゆる誰がどうしたというストーリーとは別の大上段のメッセージ性を持っているというのがパターンです。「人は○○というものだ」みたいな。富野さんというのは、ストーリーとは別にそういうでっかい仕掛けがないと映画は成立しないと思っていて、人知を超えた何かを入れたがるわけですね。別にそういうのがないとガンダムは出来ないとは思わないし、富野さん以外が手がけるガンダムにはあんまりそういうものは出てこないですが、富野さんがそういう人なので、それをやると「ガンダムらしくなる」というのはあると思います。例を出すと、

  • アムロがララァを殺してしまうところのぶっ飛んだ描写(ジークアクスでいうところの、キラキラ)
  • Ζガンダムで死んだ女性キャラの霊に守られてシロッコを倒すカミーユ
  • 精神力で小惑星の軌道を変えてしまう逆シャアのラスト
  • エンジェルハイロウという超能力者を集めて全人類の頭を吹っ飛ばそうとする悪夢な兵器
  • ∀ガンダムの月光蝶

てな具合です。善かれ悪しかれ人の思いが科学的な説明を越えた凄い現象を起こします。ガンダムUCでは福井さんはこの伝統を引き継いで、サイコフレームでコロニーレーザーを止めてます。

ジークアクスではこのオカルトをやるよーっていうことで、最初から伏線が張られてました。はい、ゼクノヴァですね。クライマックスの大ネタがゼクノヴァだということはほぼ約束されてましたが、そこに異世界からやって来たエルメスとララァが関わってア・バオア・クーを消し飛ばすというレベルになるとは思いませんでした。いや、凄いね。

で、いろいろな考察で「ゼクノヴァとは何か」みたいな説明をしようとしてるのを見かけますが、たぶん意味ないです。というのも、上のオカルトたちは全部「説明不能」だから。説明不能な何かで何かを表現しようという話ですからね。

ただし、今のところ今回のオカルトは「キシリアの意図通り」ということの様ですから、そのキシリアの意図とは何か。さらに言えば、ガンダムの伝統にのっとれば、そのキシリアの意図を越えた何かが起きる可能性も大いにあります。ゼクノヴァはどういう仕組みかとか、そういうことを考えても意味ないんで、いったいこのお話しにとってゼクノヴァが指し示すものはなんぞっていうことを考えると楽しいと思います

(3) ガンダム VS エヴァ

パロディだったり、オマージュだったりが大好きなスタジオ・カラーですから、我々もジフレドが出てきたとき「エヴァやん!」と爆笑しました。カラーリングといい、初登場の時の構図とあの足場といい、明確にエヴァ初号機をモチーフにしていることがわかります。「2号機が必要なら、こっちはエヴァにしちゃおうぜ」ということなのかなと。イオマグヌッソの中心に向かうシーンは、明確にセントラルドグマだったし。

ただ、10話のラストを見ると、これって「トリコロールに塗られたガンダム」と「紫と緑に塗られたエヴァ」が対決しているという構図になっているんですよね。この構図に何を仮託するつもりなんだろうかというのもメタな見所ですね。これで、ジフレドをジークアクスが「何やってんだ!」ってボコボコにしたら、怒れる富野に「だからおまえらはダメなんだ。俺のガンダムをめちゃめちゃにしやがって」と怒られるところをイメージしてるのかもしれません。さて、エヴァ側からの反論は如何に?(笑)

(4) ヒゲマン、あるいは緑のおじさんの戦い

もう一人の主役と言ってもいいのがシャリア・ブル。シャリア・ブルは消えてしまったシャアをずっと追いかけている存在です。これをシャアとシャリアのラブラブBL話ととってもいいのですが(もちろん、狙っていると思います)、若い視聴者が気持ちを投影する対象としてマチュとニャアンがいるのだとすれば、ファースト世代の気持ちを代弁する存在がシャリア・ブルのはずです。では、ファースト世代のガンダムファンが追いかけている「消えてしまった存在」とは何なのか。なんでシャリア・ブルは若いマチュ(=若い視聴者)を助けようとするのか。消えてしまった存在であるシャアが姿と名前を変えている「シロウズ」とは何を暗示しているのか。わざわざ、過去の遺物であるホワイトベースを今の時代に引っ張り出して、新しいガンダム(ジークアクス)を作って古いガンダム(赤いガンダム)を追いかけているシャリア・ブルおよびソドンチームが、鶴巻監督とジークアクスチームに対比されるのは当然なわけで、じゃあ、結局のところ、シャリア・ブルはこの世界はどうなって欲しかったのか。いろんな可能性があって、どの場合もシャア(=ガンダム世界で失われ、追い求めているもの)は死んじゃうんだよねっていうのも、この深読みをするとちょっと笑えます。さて、では自ら作り出したこの世界で、シャリア・ブルは欲しかった世界を得られるのか・・・と思ったら「キシリアが思ったことと違うこと始めたーーーー!」と言ってる。さて、キシリアって誰?あるいは何?(笑)

 

 

いや、GQuuuuuuXのメタ読み、面白すぎじゃね?

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