言語はこうして生まれる/モーテン・H・クリスチャンセン ニック・チェイター
言語というのはとても不思議なもので、ほぼすべての人類が身につけるものではあるのに、どうやったら習得できるのか誰もよく理解出来ておらず、意図して身につけようとすると多くの人が(もちろん私も)苦労するという、なんとも難しいものです。
最近はシジュウカラが言語っぽいものを持っているのではないかという研究もありますが、今のところ言語を使っているのは我々ホモ・サピエンスだけで知能として我々と大差ないと考えられるチンパンジーやオランウータンなども言葉は使えないようです。ということは、ホモ・サピエンスには何かしら言語を操るための他の動物にはない先天的能力があるだろうと考えられるわけですが、それが何かということはどうにもはっきりしない。
この本は、人間が言葉を使えるのはなぜかということにある程度の結論を出しています。それが「ジェスチャーゲーム」をする能力です。
非常に複雑な文法を持った言語が約7000も現存しているのはなぜか・・・ということはちと置いておいて、そもそも、どうして人間は他の個体と意思の疎通が取れるのか。それを著者はジェスチャーゲームはどうやったら成立するのかをもとに考えます。まあ、そもそも、意思の疎通を図るのに音声言語である必要はないわけです。「みんなが手話で話した島」で紹介されているように、共同体の全員が手話だけでコミュニケーションしてやっていくことは不可能ではない。手話も文法を持った立派な言語の1つですからね。で、この本の第1章では、エンデバー号のクック船長が南米最東端の港で水と薪を補給するために原住民のハウシュ族とコミュニケーションする場面が紹介されます。クック船長側からは贈り物を贈り、ハウシュ族の代表を船にディナーに招き、友好的な関係を築いて目的を果たしています。で、そもそも、なんでこれは可能だったのか。
例えば、全く言葉の通じない国を海外旅行していて、「おなかが空いたから、何か食べるものが欲しい」と伝えたいとします。おなかを押さえて悲しそうな顔をし、何かを口に入れる仕草をすれば、たぶん通じます。しかし、よく考えたらこのジェスチャーには死ぬほどたくさんの解釈の幅がありうるわけですが、なぜ通じるのか。それは、相手が
- この人は何かを伝えたがっている
- しかし、言葉で伝えることはどうやら出来ないらしい
- こういう状況で、食べ物を欲しいを訴えることは状況としてありがちだろう
- 仮に空腹で食事が欲しいのであれば、自分も同じようなジェスチャーをするだろう
ということを共有してくれるからです。で、多かれ少なかれコミュニケーションというはこのような共通の認識があり得るから成立するわけですね。これが非常に抽象的な概念になってくれば言葉を尽くしてもそこに生まれるのは「共同幻想」かもしれないわけですが(笑)、しかしながら、それが完全には共有されていなかったとしても社会が成立する程度のコミュニケーションは取れる。仮に、人類が今のような発声器官を持っていなかったとしても、おそらくこの個体間での暗黙の共通認識を成立させる能力があれば、言語は生まれるんでしょう。
逆に、チンパンジーがほぼ人間と大差ない知能をもっているのに言語を扱えないのは、「相手が何を伝えようとしているのか察する」能力がないからだと。チンパンジーの前に伏せたコップを置き、その片方にリンゴ片を入れる。そして、相手にどちらにリンゴが入っているかを指を指したり、コップをじっと見つめたりして伝えようとしても、上手く伝えることは出来ない。ただ、入っているリンゴを取ろうとするとその意図は理解して、先に取ろうとするらしいんですね。つまり、チンパンジーには「相手に行動を予測する」能力はあるのに「相手がこちらにリンゴのありかを教えようと思っている」ことがわからないし、だから「仮にリンゴのありかを教えようとしているとしたら、どうやって伝えるだろうか」ということを察する能力がない。
ちなみに、これは「文化がヒトを進化させた」に書いてあるんですが、オランウータン、チンパンジー、ヒト(の幼児。社会的な学習をする前の能力を知りたいため)の能力を調べると、空間認知、量概念、因果関係などを理解する力にこの3種のサルの能力に大きな差はありません。ただし、社会的学習能力はヒトの幼児が圧倒的な差をつけて優位になるんだそうです。社会的学習能力ってのはどういう測定をしているかというと、何か被験者が欲しがるものを獲得するための手段(ちょっと簡単には思いつかない方法で道具を使うとか)を誰かがやって見せた上で、その獲得に役立った物品を揃えて同じ課題をやってみるように促します。ヒトの幼児はうまく真似をして課題を解くけども、他のサルはこれが出来ない。
さらにちなむと、同じところにこんな話も書いてあります。逆にヒトは本能的にどうしても誰かの真似をしてしまうようで、相手と違うことをすると報酬を与えられるようなゲームをさせるとチンパンジーに劣るんだそうです。例えば、非対称マッチングペニーゲーム(詳細は割愛しますが、まあ、例えばチョキで勝つと、パーやグーで勝つよりポイントが多くもらえるじゃんけんみたいもの)に対して確率的にどういう手を出していれば期待値が最大になるかというような戦略を考えることがチンパンジーより苦手です(というか、チンパンジーがこれで人間より良いスコアを出せることが驚きですよね)。特に、あいこではなく、相手と手が食い違ったときに有利になるゲームが優位に苦手だと。それぐらい、人間は本能的に真似をするように出来ているんですね。
じゃあ、これで人間が言語っぽいものを使ってコミュニケーションが取れそうだというのはわかったとして、実際に我々が使っている言語、特に文法なんかはどうやって生まれてくるのかというと、それは人間の短期記憶の制約に依るものだろうと。そもそも人間の短期記憶はものすごく制限されているので、音声情報がストリームで入ってきてもそれを全体として処理対象にすることは出来ません。なので、それをぶつ切りにしてある程度を新しいチャンクにまとめて、それをさらにまとめて・・・と処理せざるを得ない。それが、今の自然言語の文法が必要とされる原因だろうと。発話も同じで、よっぽどの訓練をしない限り長い文章を一気に組み立てて順に発話していくことなんて出来ないので、「えー」とか「あー」とか言いながら、細かいフレーズを音声に押し出していくしかない。という制約に適した文法をジェスチャー混じりのコミュニケーションから組み立てていくと、今のような文法を持った言語が、バラバラに7000も出来てしまうのだろうと言っています。なるほど。
逆に、人間には生得的に文法能力があるのではないかという生成文法の考え方でいくなら、そこから7000もの言語が出来てしまうその能力はあまりにポンコツじゃないかと(笑)。まあ、それはわからなくもないですね。
後は文法の生まれ方の調査についてとか(例えば訳のわからない複数の音素の並びを伝言ゲームしていくと、ちょっとずつ間違って伝わっていく中である程度の法則がそこに出来てしまう話とか。興味深い)、脳にある言語野は本当は何をしているのかとか、いろいろなトピックがあり面白いです。
最後の章で、GPT-3を代表とする自然言語処理のAIが我々の仕事を奪うかという議論をしていて、ここまでの議論のように我々が言葉を使ったコミュニケーションをするために必要な能力が本質的にはジェスチャーゲームを成立させるために必要な能力だとしたら、GPT-3はあなたの代わりにはならないですよとそういうことを書いているのも面白かったです。これはある種の新しいチューリングテストを作り出せる話?ホント?
というわけで、なかなか面白かったです
Recent Comments