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ホモ・デウス/ユヴァル・ノア・ハラリ

ベストセラー「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ先生の「ホモ・デウス」が売れてます。どういうわけか、会社で公開読書会なんて開かれたりしてます。最近、うちの会社、ちょっと変。

「サピエンス全史」は切り口が面白いものの、基本的には歴史の本でした。その「サピエンス全史」が切り取った歴史観の元に、人類の未来を見通すのが本作「ホモ・デウス」です。こっちはかなり過激な書物です。

さて、この本、ちょっと見通しが悪いです。なぜかというと、2つのことが主張されているからです。2つは密接に関連しているのですが、私にはあくまで2つのことのように思えます。

1つ目は、この本の本題に入る前の1章(この本は第1部が2章から始まります)で語られます。

人類は、長らく「飢餓」「疫病」「戦争」の3つの解決不可能な問題で苦しめられ、神に祈ってきました。ところが、ふと後ろを振り返ってみると、この3つは解決不可能ではなくなってます。現代において人が飢えて死ぬのは国際紛争や内政の致命的な誤りのような間違ったことが起きているからです。現代において疫病が流行して人がバタバタ死ぬのは封じ込めに失敗したからで、これも誤りが起きたことを意味して、誰かが責められます。戦争は今や際限なく拡大したら地球が滅びるレベルの問題なので、各国は協調してその発生を制御しています。

というわけで、人類は自らの生存を脅かす問題を解決できる目処がついてしまったので、次なる困難に立ち向かっています。これは好むと好まざるとに関わらない人類の性のようなものなので、止められません。そして、ハラリ先生の見るところ、人間は「死ななくて、幸せになって、神のようなものになる」ことを目指すそうです。そして、それらは今のところちょっと目処はついていないけども、テクノロジーがそれを可能にするターゲットに入っているように思えます。そのようにアップグレードされた人間は、もはやホモ・サピエンスではなく「ホモ・デウス」と呼ぶべきだと思えるというのが、1つ目の話です。これが、タイトルの意味です。

さて、この主張を前置きとしてから、本書は2つ目の主張についてのながーい説明に入ります。様々なトピックが語られ、それらが全部面白いんでわっくわくしながら読めばいいんですが、お話の流れを見失ってしまった人、あるいは、こんな長い本、読んでいられんわという人のために、超かいつまんで話の流れを説明すると、こんな感じです。

まず、ホモ・サピエンスと呼ばれる猿が歴史に登場してから数万年後、今から7万年前に突如として世界の支配者になるための資質を身につけます。それを、ハラリ先生は「認知革命」と呼んでます。「サピエンス全史」を読んだ方にはお馴染みですが、あの話がもっかい出てきます。

どーゆーことかと言いますと、サピエンスはなぜか突如として群れを拡大する方法を手にしたんですね。それが「宗教」の発明です。いや、発明というか、進化ですね。自分の群れ以外の同族と共通のイメージとか物語を共有することにより、同じ目的のために行動できるようになったんです。そういう能力を今のサピエンスは生まれながらにして持っている。それが、ネアンデルタールや他の高い知能を持っている動物と、サピエンスの違いになりました。なにしろ、同じファラオを神と崇めることにより、車輪も発明していないのにピラミッドを作ることができるようになったんです。これにより、サピエンスは他の動物に比べて圧倒的な力を手にして、世界中に広まりました。農耕の発明や、文明の芽吹き、産業革命などのイベントよりもっと昔に、サピエンスは決定的な力を手にしたわけです。

このように宗教は、サピエンスの力の源泉です。もちろん、ここでいう宗教はかなり広い意味です。私たちが帰属する集団の一員であることを理由として、理屈を抜きに善悪や正誤の判断をしていることがあれば、それはすべて宗教です。そういう価値判断を生来のものとして受け入れることができ、そのために自己の命を犠牲にすることもできるということが、サピエンスのサピエンスたる所以です。そして、有史以来、紙に書いた聖典を持つ宗教によってサピエンスがその集団を維持し、活動してきた時代がかなりあったわけです。聖書とか、コーランとか、お経とかね。

ところが、科学技術の発展により、神の存在は危うくなります。どうも人類は神が作ったんじゃなくて猿から分かれてきたみたいだし、聖書が書かれたのは神がそれを記したっていう伝承より何百年も後みたいだし、神の教えをどう解釈しても免罪符では救われなさそうだし。というわけで、ルネサンス以降、誰かが「神は死んだ」とか言ったり言わなかったりして何百年か経ち、それが全員ではないからトランプが大統領になったりしているものの、「どうも神様はいないっぽい」ということがサピエンスのコンセンサスになりました。

となると、それに神に変わる何かが善悪や正義についての価値判断をする必要があります。国家主義や帝国主義、資本主義、社会主義、共産主義などなどいろんな宗教がその地位を占めてきたわけですが、現在の流行は自由主義。またの名を人間至上主義です。

人間は個人として自由意志を持ち、己の幸せを追求する権利を持つ。従って、自分が幸せになれることが良いもの。それを阻害するのは良くないもの。ただし、個人の欲求がぶつかるときには、その調整が必要。例えば、男同士がイチャイチャしてる。キリスト教の神が健在であれば、これは聖書にダメって書いているからダメなこと。ところが、人間至上主義では、「彼らがそれで幸せで、誰の幸せも妨げていないのなら邪魔しちゃだめでしょ」が価値判断となります。もちろん、人類が衰退して男女が5人ずつしか生き残っていないというシチュエーションなら「いいから女とセックスしろ」ということになるかもしれないわけで、公共というものは存在はしているわけだけども、それが最優先ではない。そこで「生産性が」とか言い出すと社会的に殺されるという世界を我々はいま生きていて、特に疑問にも思ってません。で、自由意志を持たないもの、例えば人類以外の生命体とか、国家、企業などの法人格よりも、自由意志を持つ個人が尊重されるというのが人間「至上」主義ということの意味です。我々が家畜をヒドい扱いにしている根拠もここにあると。

ところが、科学技術が神の存在を疑問視したのと同じように、科学技術、ことに最近の脳神経科学や心理学、計算機科学の発展は、「自由意志」の存在と価値をも疑問視するようになり始めました。

例えばイーグルマンの「意識は傍観者である」(文庫版のタイトルは「あなたの知らない脳」)はこの辺りを詳しく伝えているスリリングな本です。受動意識仮説と呼ばれますが、私たちは本能的に行動したことをその後で意識的にしたと自分自身を騙すようなことをします。あるいは、人間の行動や情動は並行プロセスですが、それをコントロールする「メインプロセス」が存在すればそれをその人の「自由意志」と呼べるかもしれませんが、どうもそういうものでもないようです。考えてみれば、そのようなモノシリックな構造で素早い行動を取るのは非効率ですものね。ということは、その集合体を「自由意志」と捉えることは可能なのでしょうか。

あるいは、これはちょっと古い説(1970年代に書かれた本です)なのですが、ジェインズの「神々の沈黙」という本があります。この本でジェインズは「二分心」というものを提唱していて、今から3000年ぐらい前までは人類には意識がなかったと言ってます。意識がないと言っても、「意識不明の重体」というような時に使う意識がないということじゃなくて、自意識がないってことです。自分の情動や感情、思考を自分自身のものと捉えていなかったのではないか、つまり「自分」という概念そのものが無かったのではないかということです。これを古代文学(ホメロスとか)を研究することにより思いついちゃったんですね。

古代人は内なる情動を自分とは別の人格だと捉えていたため、古代の文学には「私は怒った」という表現がなく、その代わりに神の存在が身近で、その声を常に捉えていた。つまり、「あいつに騙されて、腹が立ったので殺した」ではなく「あいつは騙しを行った。そこで神は罰せよと私に告げた。そこであいつを殺した」という思考プロセスになっていると。で、そもそもこれは人類の通常の生理学的なプロセスだったんだけども、二つの人格、その原因は右脳と左脳の相同部位なのではないかと考えているんですが、それを統合して扱うことができるという肉体的な変化が人類に起こります。統合された自意識を持つことが生存に有利だったために、3000年経った現代では二分心を持つ人はものすごく少数派になり(シャーマンとか巫女みたいな人は二分心を持ったままの人と考えられます)、つまり人類は新しい形質を備え、進化したという説です。これ、誰も何も証明していないただの説なんですが、あまりに面白いのでみんな気になっている・・・みたいな扱いらしいです。

で、まあ、自意識なんてその程度のもので、サピエンスが効率的に行動するための機能の1つに過ぎず、統合された人格とか、個々人の自由意志なんて仮想的だけ存在するものなんじゃないの、というのが現在の科学の説明するところなわけです。あるいは、人間の幸せなんて、つまるところ脳内に良い感じの化学物質があるっていうことに過ぎないよなんてことは、みんな大好きグレッグ・イーガンの初期作品で散々扱われていること。となると、自由意志と個人の幸せに最も大きな価値観を持つ人間至上主義は、その中心概念を否定されることによって衰退していくのは仕方が無いことです。

読書会でも、人間至上主義、つまりヒューマニズムを否定することは是か非かみたいなテーマが語られて、割と保守的な立場を取る人が多かったみたいです。ところが、人間至上主義の世界から「神至上主義」と言っても良いような中世ヨーロッパみたいな世界を眺めると「いや、社会的機能があることは認めるけども、神なんてあるんだかないんだかよくわからないようなものを価値判断の基準にすると、いろいろと不都合が起きるに決まってるじゃんよ」と思うわけで、どう考えても未来の人類から人間至上主義の世界を眺めたらイケてないに決まってます。デカルト、ベーコン以降の近代哲学がずっと合理的思考や科学的現実と神の折り合いを必死こいて付けてきて、最終的には「いらんだろ、神」というところまで行く歴史をみるにつけ、人間至上主義の行く末も、恐らくは同じようなことになります。「えええ、そんな個人としての人間が尊重されない世界とか、ディストピアじゃん」という暗い気持ちになるのもわからんでもないんですが、「神様が実在しないとか、そんな世の中で生きている価値あるの・・・」と絶望する人に感情移入できないだろうし、つい100年前はバリバリの全体主義国家だった日本人が何言っての的な話ではあるわけです。

さて、問題は人間至上主義の次の宗教はなんだべさ・・・というのがこの本の最後の章になりますが、それはズバリ「データ教」です。ちょっと前まではAIは人間を超えないと思われてました。なぜなら、AIは「意識」を扱えないから。「意識」がない知性では人間には敵わないんじゃないかと思われていたわけです。ところが、どうもそんなことないぞと。つか、人間の「意識」の存在の方が怪しいぞと。意識抜きの知性がゴリゴリ発展して、アルゴリズムとデータで人類総体の幸せを実現してしまうのなら、それが良いんではないか。

ちゅか、人間の活動も、社会も経済も、森羅万象、アルゴリズムによるデータ処理なんだから、それが上手く処理出来ていればそれが善だろう。社会主義に資本主義が勝ったのは、資本主義が人間の個々人の幸せや自由に紐づいていて優れた思想だったからではなく、単に効率的な処理プロセスでうまく全体を最適化できたからだろう・・・という価値判断に基づくのがデータ教です。そして、そのためにはすべての情報はオープンになって誰しもが利用できなくてはならないというのが、その教義です。私は自由で幸せだと内的に認識するのではなく、「私は自由。そして幸せ」とSNSにつぶやいてデータフローの一部になり、世界と一体化することが善ということです。

ピンときませんか。きませんね。うん、まあ我々は旧人類ですからね(笑)。ただ、今私は現実にブログ記事を書いて、「本を読んで感想を日記帳に付けるよりも、ブログに書いてオープンにすることの方が、自分にとっても、世の中に対しても良い行動だ」と漠然と思っているわけですよ。その理由はいろいろあるんですけども、総じて言えば「なんか、世の中そういうことになってきてるらしいよ」ってことに過ぎません。うーん、確かにデータ教の信者かもしれん。

そして、このデータ教、データ至上主義の世界は個人を軽んじます。人類はデータとアルゴリズムに基づいて、ベストな選択と幸せを与えられてまどろんだまま家畜になって行きかねない。ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、データ至上主義はホモサピエンスにしかねません。

いや、これまでの宗教も、ファラオが、法王が、資本家が、独裁者がしてきたことを考えるとデータ至上主義がすっごい悪い未来かはなかなかなんとも言えないわけです。人間至上主義の世界で破壊された地球環境を、データ至上主義が取り戻したとしたら?。そして、そもそも好むと好まざるとに関わらず、データ教に従わないと生きていけない世界は来てしまうかもしれません。個人をないがしろにすることは良くないなあと思いながら、そうじゃないと競争に勝てないもんなあとGPS付きのスマホを営業部員に配って行動を収集し、アルゴリズムで最適化しようとしている経営者を責められるんかいという話です。

さて、そんな世の中きてますねーという観測と思考の末に、ハラリ先生はこの新しい宗教の元での社会や政治や日常生活はどーなんでしょうね。考えてみてね、と言って2つ目の話が終わり、この本も終わりです。あれ、ホモ・デウスどこいった。

でも、まあ、繋がってますわな。データ教の世界で、ホモ・デウスとホモ・サピエンスが共存することになるわけですが・・・一方がもう一方を支配するというような単純な世界でもないですよね。ホモ・デウスの方がデータ教の世界に最適化された種になるということは、えーっと・・・うらやましくない感じは拭えないぞ、となりますし。うーん、それぞれ2つが難しいテーマであるだけでなく、関連まで考えたらだいぶグラグラくる話だな、これは。

というわけで、メインのお話もかなりスリリングで危険思想ですが、枝葉の話もものすごく豊富で面白いので是非読んでみてください。話がモリモリに突っ込まれまくっているんで、今、何の話なのかわかりづらいところもあります。章ごとに整理してくれるので読みづらくはないんですが、見失うことがないとも言えないです。なので、今私が書いたメインストーリーラインを飲み込んで、そっちに行くのねーと思いながら読むといいかもしれないです。


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