表現を圧しようとするものを、私は許さない
また、大変に残念な動きが出ております。
ヤフーの若いエンジニアが、ジェンダーについてセンシティブな話題を扱いそこねたとして怒られています。
「女性エンジニア少ない問題」を解決するために、機械学習で男性エンジニアを女性に変換する
まず、断言しておきますが、彼の講演にはまったく問題になるところはありません。単に、周囲の読解力に問題があるだけです。その詳細についてはtwitterに連投しちゃったのでここでは割愛します。気になるなら下の発言以降のツイートを見てくんさい。
「女性エンジニア少ない問題」には一切批判される理由はない。問題は、世間からのバカな反応を予測しなかったことかもしれないが、そんなこと知ったことじゃないhttps://t.co/ywn266TLPd
— 丹原 匡彦_Tambourine (@tmbrms) 2018年6月22日
ここで言っておきたいのは、twitterなどの公の場で、こういう発言をしてはいけないという2つの点についてです。彼の講演自体ではなく、彼についての批判で目に余るものがあったためです。
まず、1つ目。常識的なことを言いますよ。
あなたが、あるいは誰かが不快になるからという理由だけで、誰かを罰しようとしてはいけません。
不快な発言と問題ある発言は違います。多くの問題のある発言は不快でもあるので、ごっちゃにしてしまううっかりな人が多いようです。また、企業や政治家が「誰かを不快にしたり、傷つけてしまったのなら謝罪したい」ということをいうので、不快にしたり感情的に傷つけたりすることが罪であるような捉え方をしているおっちょこちょいな人もいるようです。
しかし、ある特定の個人・団体・集団に対する侮辱や、差別的な発言のような明らかな問題のある発言と、下品で不愉快な言動は区別されるべきです。どちらを批判することも、不快感を表明することも、それはもちろんかまいません。
しかし、発言を封じようとしたり、刑事的や社会的な罰を与えようとしたり、発言者の正当な権利を侵害しようとしたり、それを希望するようなことを言ってはいけません。それでは、その発言の方が問題のある発言です。それは言論の自由や、思想・信条の自由という基本的人権を奪うことだからです。
今回の例で言えば、彼から今後の講演の機会を奪おうとしたり、彼を失職させようとするような発言は、断固として許されるべきではありません。そのような発言をしたものは、深く反省して欲しいと思います。もちろん、「そんな奴はtwitterを止めろ」なんていいませんけどね。
2つ目。小学生に言うようなことを言いますよ。
誰かの言動のちょっとした齟齬や不整合をあげつらったり、悪意や思い込みを持って意図を曲げて批判したりしてはいけません。
要するに、よく知りもしない他人の言動なんだから思いっきり「良く解釈して」あげるべきです。あげ足を取ったり、推測で批判したり、議論の中心ではないことで全体を評価したりしてはいけません。
今回のことで言えば、例えば「女性エンジニアは男性エンジニアのやる気を出すためにいるんじゃねーよ」という批判ですが、彼はそんなこと言ってません。「いや、こういう論旨の組み立てなんだからそういうことになるだろう」と言われるかもしれませんが、それはあなたの読解力の問題、あるいはユーモアというものの仕組みを理解していない故の誤解です。
そもそも、言ってもないことを批判してはいけません。彼は、「女性エンジニアがいると、男性エンジニアはやる気が出る」と言っているだけです。男性エンジニア全員かと言われればそうではないでしょうが、少なくとも男性エンジニアである彼のやる気はでるのでしょう(ちなみに私もでます)から、この文章は事実です(もちろん、一人の判例をもって逆の文を事実と認めることもできます。論理的に不完全な文だからしょうがない)。「女性エンジニアがいないと、やる気がでない」とも言っていますが、これは「女性エンジニアがいないと、(いる場合に比べて)やる気がでない」と言っているとすれば、これは最初の事実から論理的に導かれることに過ぎません。
これを「女性エンジニアがいないと、やる気が出ない(から、女性エンジニアは男性エンジニアのやる気を出すように振る舞うべきだ)」とか、「女性エンジニアがいないと、やる気がでない(から、女性エンジニアはその目的のために必要だ)」とか解釈するのは、無理のある推論とまでは言いませんが、あくまで推論です。仮にそう思ったとしても、「まあ、彼のことをよく知っているわけでもないし、そういう意図じゃなかったかもしれないし」と思うのが正しい大人です。彼自身や、周囲の同僚が「そういう風に解釈する人もいるかもしれないよ」と言ってあげるのは良いことですが、そうじゃない人がこの点について批判するのは不適当です。それは完全にマナー違反です。
ただし、個人的な解釈によって不快に感じた人が不快感をフィードバックすることは良いことだと思います。「そういう言い方をされると、ちっとイラっとするな」というリアクションはアリです。ただし、それだってこの彼をできるだけ傷つけないように行われるべきです。だって、そうでしょう。彼によって傷つけられた人が、なぜ彼を傷つけるようなリアクションを返すのか。「講演の記事を読みました。難しくてちゃんとは理解できなかったのですが、そんなことができるのかと感銘を受けました。ただ、・・・」と礼儀正しく伝えるべきです。礼を失してると感じられた、プライドを傷つけられたと思った人が、相手に対して礼を失したアクションをとったら台無しです。これもごっちゃにする人がいるのですが、感想であっても感情のままにぶつけてはいけないのです。「個人の感想」と「感情的な反応」は別です。
まとめます。まず、問題のある発言(事実でない・特定の個人を侮辱している・差別的な内容を含む)ではないものを断罪してはいけません。批評・批判することはかまいません。ただし、発言した内容ではないこと、例えば拡大解釈や推論を論拠に批評・批判してはいけません。そして、いかなる場合にも個人の感想を表明することは自由ですが、相手に伝えるのであればマナーを守るべきだし、twitterのような公共の場では、それは相手に伝わるのだという前提に立つべきです。
最後に。なぜこんなことを書いているかと言えば、表現者の抱える負担を下げることが、結果的に社会を良くすると思っているからです。このように脇が甘いだけで本質的に一切の問題がない表現が世の中にでないようにすることを私は望みません。誰しもが発信できる時代だからこそ、我々は発信においては慎重でなくてはならないし、受け取るときには寛容でなくてはなりません。発信できる情報を持っている人は、どんどん発信しましょう。それがIT革命の素晴らしい点です。その際に、いささかのユーモアを含ませることは、とても素晴らしいことです。ユーモアは本質的に他者を傷つける表現と無縁ではあり得ませんが、それを上手に送ったり受け取ったりできてこその大人です。
そして、このように問題のない表現の細かな点をつついて萎縮させることにより、そもそも批評や批判を相手にしないような厚顔の輩の発言だけが世の中に出回り、世にフェイクニュースが蔓延り、世の中が少しずつ悪くなっていく。そのような動きを私は望みません。この世が自由と寛容と礼節の行き届いた良い世界になっていくことを望みます。長寿と繁栄を。
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