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「朝日のような夕日をつれて 2014」を観てきました そのに

ああ、大高さん、DQ10やってるんだー

それはともかく。あ、これ以後はバリバリのネタバレになります。これから見る予定の方はご遠慮を。

「朝日~」は簡単にはあらすじを説明することができません。作品は「立花トーイの世界」と「ゴドーを待ちながら」の2つの世界で作られていますが、そのどちらも(程度の差はありますが)リアリズムではありません。

「立花トーイ」では、今、どんなおもちゃが流行っていて、それをうけての「究極のおもちゃ」とは何か語られます。

「ゴドー待ち」では、ベケットの「ゴドーを待ちながら」の登場人物達が、「俺たちはせめて楽しく待つぞ」と稽古場で磨き上げた至高の遊びを披露します。

この作品を貫く「おもちゃ」と「遊び」は、上演の度に変わります。逆に、「朝日~」をやるにふさわしい新しいおもちゃが存在しなければ出来ない作品ともいえます。今回は、実に17年ぶりの「朝日~」。前回はMMORPGのようなネットワークゲームが題材でした。今回はOculus Rift。実は、バーチャルリアリティ自体は以前のバージョンの「朝日~」で取り上げたこともあります。また、いわゆるライフログやビッグデータのようなものも、そんな言葉がでる前からネタとしては織り込まれていたわけで、そういう意味では表層は変わっても、芝居の根幹は変わりません。

逆に、遊びの方は・・・ドッヂボールに行く前までの部分はバブルの頃の上演から比べると、ぐっとパワーが落ちてしまいました。このパートがダメだったと書くと、まるで大高さん、小須田さんがダメだったように聞こえてしまうかも知れませんが、ここは時代もあるのかなあという気が・・・。テレビのパワーが落ちてしまって、みんなが知っているネタがなくなってしまったからなあ。一番受けていたのが「懐かしのCMシリーズ」・・・って、それじゃ91年の「朝日~」と同じになっちゃう。

まあ、それも含めて、この芝居は「現時点での鴻上さんの時代分析」みたいなところがあって、鴻上さんが今の世の中をどう捕らえているのかが垣間見られるのが魅力です。初期からずーっと残っていた業界ネタ「新劇病」も、「新劇病→ミュージカル病→小演劇病→静かな演劇病」と延々続いてきてましたが、いまさらこれやってもしょうがないだろうということになったのか、「ソーシャルネットワーク病」になってました。

さて、役者さんですが、もう、大高さんと小須田さんはいいですね。みんなから「2人の体力は持つのか」と心配されたとのことですが、まったく問題ないです。もうお2人に関しては何もいうことはありません。むしろ、せっかくだから役ひっくり返せばよかったのにとか思ったりして(笑)

そして、ゴドー1は藤井隆さん。いや、大変だろうなー。91は勝村さん、97は筧さんがやっている役で、ある意味、「小劇場病」の体現というような役どころですからね。無駄に動くのが勝利の鍵というような(笑)。それでも、実際にやってみたらぴったりの役どころでした。なんとなく、挙動不審になったり、気味悪いキャラになったり、かと思えば一転して真剣なまなざしで格好つけたり。引出が多いところがゴドー1向きです。

まあね、ちょっと稽古不足の面が見られましたよ。冒頭の群唱があっていなかったり、途中で台詞が出てこなくなって、客席が「おおぉぅ」とはらはらしたりなんてのは、第三舞台の芝居をみていてなかなかあることじゃないですから。でも、さすが役者の魅力がそれをカバーしてしまってました。ゴドー1が客席から登場するときの台詞はアドリブなんですけど、「初日、緊張しました-。今日はもう2日目だから大丈夫・・・じゃないです。緊張してます」的なことを言ってました。

ゴドー2は、伊礼彼方さん。「リンダリンダ」でお見かけしましたが、格好いいですねぇ。ゴドー2の見せ場はなんといっても「嘘つきは誰だ」のコーナーですが、歌うキャラでした。ミュージカルとかいろいろやっているのが反映されているんでしょうか。このコーナー、面白かったなあ。筧さん版、松重さん版も好きだけど、今回のアナ雪落ちも好きですねぇ。

何でアリなんだろう・・・と思っていて、あのイントロが流れた瞬間に笑っている人がいて、明らかにアリと「ありのままで」をかけたネタだということがわかっているんですよ。その瞬間に焦りました。えっ、ここでわかっちゃうのと。なんとかサビにたどり着くまでに気がつきましたけど、悔しかったなあ。こんな芝居だから「アナ雪」は絶対ネタとして取り上げられるとわかっていたはずなのに・・・。こういう悔しさってなんだかすごく久しぶりに感じました。97が「エヴァ」だったところは、「進撃」になってましたね。そうだよね。「まどマギ」じゃないよな(笑)

あと、今回、ゴドーが二人とも第三舞台の役者じゃなくなったということで、「ウォーアイニー」の後、ウラヤマとエスカワがはけたあとの二人の語りのスピードがぐっと落ちました。91も97もすごい勢いで会話が進みます。この芝居のスピードになれているとまあそんなものかなと感じちゃうんですけど、やっぱりあれは相手の言うことなんて聞いて無くて、ただの語らいになっちゃってますよね。今回、藤井さんと伊礼さんは早くはあるけども、ちゃんと会話になる速度になっていて、それは「あ、これはこれで正しいな」と思ったんですよね。あのシーンで、「あ、これは第三舞台ではないんだ」と感じたり。

そして少年役の玉置玲央さん。非常にクレバーな印象を受けました。そして、時々、筧さんのように見える。たぶん、結構研究されたんじゃないですかね。目を見張るような芝居というわけではないんですけど、今回の「朝日」に溶け込んだ自然な演技でした。でも、「朝日」ですからね。「朝日」における自然な演技ってなんだよっていう(笑)。

最後に、芝居全体に対する感想です。芝居の中で代々語られては否定されてきた究極のゲーム達。「リアル・ライフ」、「イデア・ライフ」、そして「ソウルライフ」。しかし、現代において「もうひとつの日常」というテーマはかなり身近になりました。Facebookやセカンドライフ、MMORPG、Googleストリートビュー、電子マネーなどを通じて、リアルをヴァーチャルに写しこむことで対する想像力と懸念は一般の人々の間にもかなり浸透してきました。しかし、それでこの芝居のテーマが古くなったことはなく、まさにリアルな問題になった感があります。

待ち続ける人々は、人それぞれのソウルライフの中で、一人楽しく待ち続ける。その楽しさの集合体がディストピアであることまではみんなが共有している認識です。それでも「立ち続ける」こととは何を意味するのか。朝日の冒頭、あるいはラストシーン。八百屋(客席に向かって低くなる傾斜になっていること)の舞台に踏ん張っている役者が「僕は、独り!」と叫ぶシーンで、右手にスマートフォンが握られていたらそんな台無しなことはないわけで(笑)、こんな時代に独りでいると宣言することは、おそらく80年代とはまた違った意味を持っています。

いや、どうなんでしょう。ケータイの電話帳の、マイミクの、Facebookのタイムラインの、そのリストを眺めて「たくさんの人と手をつなぐことはとても悲しいことだから」と口に出す苦さは、鴻上さんがこの台詞を書いたときの苦さと繋がっているんでしょうか。私が20年前にこの芝居に触れたときに感じた苦さと、今感じる苦さが変わってしまったのかどうかも私にはよくわからなくなってしまいました。

たぶん、鴻上さんはなにか答えをもっているのだろうと思います。そんな感じがしました。でも、それが示されるのはたぶん「朝日」の中ではない。それがどのような形ででてくるのかを、すごく楽しみにしています。

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