「朝日のような夕日をつれて 2014」を観てきました そのいち
2011年の年末に、第三舞台は10年の封印を破り、そして復活公演がそのまま解散公演になりました。
もちろん観に行ったんですが、そういえば感想をここに書いてませんね。うーん、端的に言って、ピンとこなかったんです。
芝居としては面白かった。といっても、あのメンツが舞台の上に居て面白くないわけはないじゃないですか。でも、芝居のテーマと役者が噛み合っていない気がするんです。といっても、鴻上さんの芝居において、役者が必ずしもテーマを体現していないことはままあるわけです。それでも、人が一つの人格を演じることに対するカタルシスというのはあって、それは無条件に観客を感動させてしまったりするので、芝居が成立してしまう。
それでも、強烈に噛み合うときもあって、今回は良かったねー、良くなかったねーということになるんですけど、でも、「良くなかったねー」の時でも全然損したという気持ちにはならないわけです。なんせ、芝居ですから、自分が観た回がたまたまハマらなかっただけかもしれないし、ハマってなくてもお代分はもらって帰ってこれていたからです。野球を観に行って、いい試合だったとか、ダメだったとか、ひいきのチームが勝ったとか負けたとか、そういうものに近いかな。ちょっと違うか。
それで、その封印作品「深呼吸する惑星」は、鴻上さんとしては同窓会にしたくない、最後に第三舞台として新作を一本いつものようにやって終わるんだという静かな気合いが入っている設定だし、本なんだけど、役者はやっぱりそれぞれの感慨もあり、何よりお客さんの雰囲気が「最後に何をやるんだ!」という構えた感じになっちゃってて、ありゃー、噛み合ってないぞーと。
で、見終わった感想は、「第三舞台だった。今回はどうも自分にはピンとこなかった」ということになって、なんだか封印前に公演を観たときとおんなじ感じになっちゃいました。うん、全然解散公演ぽくなかったぞと。いや、それはまあ、狙ってそうなっている気もするじゃないですか。上の状態を推測する限り。
なので、拍子抜けして、感想を書きそびれたと。まあ、なんというかね。最後に1本観られて良かったねと。それ以上のことはあまりなかったんです。いや、ホントは芝居のテーマ的にはいろいろ感じたり、考えたりしたんですけど、それ以上の肩すかし感だったと。
で、その前も、その後も鴻上さんのお芝居はちょいちょいと観に行っていますし、心の底では第三舞台が観たいとやっぱり思っちゃってるわけで、どうしても大高さんや長野さんが出ているお芝居を選んで行っちゃったりします。そうしていると、観ている観客的には、それも「トランス」という第三舞台の芝居ではないものを最初にみちゃった遅れてきた観客的にはですよ、まあ、これでもいいか感といいますか、第三舞台はまあ、それそのものではないにしろ、観られなくなったわけではないじゃんよ。鴻上さんは演劇を続けているし、大高さんも時々でているしなと。
というような消化不良感を抱えていたわけですが、なんと鴻上さんが紀伊國屋ホールの50周年を祝う作品を依頼されて、「朝日のような夕日をつれて」をやるんだと。えええー。いや、そりゃ確かに相応しい作品かもしれませんよ。でもさ、第三舞台はもうないわけじゃないですか。他の作品は別の役者たちでやってもいいし、鴻上さん以外が演出したっていいと思うんですが、「朝日〜」は違うじゃないですか。
「朝日〜」は特別で、「ここは鴻上が考えるパート」「ここは大高と小須田が考えるパート」というように分業制で作られるようなものですから、たとえ大高さんが出ていたとしても、それで作れるというようなものでもないですよね。電気GROOVEの「ウィー・アー」はカバーしないし、ゆずの「岡村ムラムラブギウギ」はカバーしないじゃないですか。だって、ゴドー1の登場で「第三舞台だ、よろしく!」って言っちゃうよ?
え?大高さんと小須田さんがウラヤマとエスカワで出るの?いや、女優陣や筧さんには悪いけども
それはもう第三舞台なんじゃないの?
というわけで、第三舞台ファイナル・リベンジというような気持ちで8/1(Fri)、公演2日目を観てまいりました。いやー、観に行くところまででこんなに書いちゃった。感想はいつ書けるんだろう。つづく!
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