今月のLife「友だちの作り方」を聞いて怒りが沸いてきた
先週の日曜日に文化系トークラジオLifeのイベントがありまして、続けてその夜はLifeの放送だったわけです。
テーマは「友だちの作り方」
録音したものを通勤途中に聞いてるんですが、だんだんと腹が立ってきました。
何が「待ちの戦略」だ。何が「共通の趣味がないと」だ。何が「立食パーティーにサクラを」だ。
甘えるのもいい加減にしろ!
まず、これを読んでください。
みんな、赤ン坊の時は、「もてなされる人間」だったのですが、だんだんと大きくなるにつれて、少しずつ「もてなす人間」にかわっていくものなのです。 ところがどうしたものか、最近二十歳近くになっても、のほほんと「もてなされる人間」のままでいる奴が多いのです。
どうしたんだ、一体!
こいつらは、IQの高さに対抗して、誠実さを武器にして、せまってきます。 相手をもてなす努力、つらさを理解しようとせず、ただ、自分がこんなに相手のことを思ってるんだからと、誠実さ一本槍で、ぐいぐいとせまってきます。
ああ、コワイ。
集団遊びの中に、一人でもまじっているとガンになるのは、このテのタイプなのです。
これは、鴻上尚史さんの「冒険宣言」に収録されているエッセイの一説です。これを読んだ後でも同じことが言えますか?言えるのか。筋金入りの甘ちゃんだな。お前がガンだ!
いや、だから、小学校、中学校での人間関係の話ならいいです。そこでいろいろと失敗もして、友達と仲良く楽しくやっていくには、「そのままの自分」ではイカンのだ。あるいは、「今の自分」ではイカンのだということを学んで、大学生ぐらいになったら「もてなす人間」、つまり集団に対して貢献することを考える(できるかは、まあおいといて。心構えが大事)人間になるわけです。要は、それが大人ってことですよね?
貢献の仕方は、自分の能力でもいいし、そうでなければ熱意でもいい。集団ごとに自分の果す役割は違うはずですよね、当然。言ってしまえば、家族の中でだってそうでしょう?甘えた末っ子のポジションが家族という集団に必要だと判断すれば、30歳を超えたってその役割をやることだってあるわけじゃないですか。
Life本の中で、初期のLifeでcharlie自ら文字起こしをやっていたというエピソードがあり、「僕はそういうことをしちゃう人間なんです」と書いてますが、それはつまりcharlieはちゃんと「もてなす人間」であり、だから皆もついてくるんだという当たり前のことなわけですよ。
ちなみに、この「冒険宣言」が出たのが1987年。私は中学生のときにこれを読みました。鴻上さんがここで言ってる「最近」から25年経って、全員が「もてなされる人間」になり、「もてなす人間」をわざわざ外部から注入しないとパーティーで話もできなくなったってことなんですか?ホントですか。
たぶんホントじゃないんですよね。赤木さんにしても古市さんにしても、ちゃんと大人なんだからいざとなったら自分はちゃんとやるわけですよ、絶対。大人やるのつらいよねという目線からこういう話をネタとしてわざとしてるだけです。でも、年端もいかないリスナーが信じちゃうからね・・・。
もちろん、私だって「今日はうまく話せなかったな」とか思うことはありますし、初対面の人と話すのが得意というわけではありません。でも、自分が「もてなす」意思があり、相手も同じならどんな人間とだって間違いなく楽しく話ができるはずです。こちらが「もてなす」側で相手がのほほんと「もてなされる」側だったとしたら、私はそんなに楽しくないし、結局、相手も同じでしょう。これが、「誰とでも初対面でうまい酒が飲める」になったら一流なので、劇団の主宰でもやればいいというのは、鴻上さんの別のエッセイに書いてあります(笑)。
予告編でめろん先生が「オレ、サシでなら飲めるんだよね」とおっしゃってますが、そりゃ当たり前でサシなら目の前の相手に興味ない態度を取る方が難しいですから。例えば、私だって女の子と話すのは大好きですが、女の子達と話すのは苦痛以外のなにものでもないわけで、それは女の子が複数人集まったときの「もてなす人間」の割合の低さが耐えられないからです。「あたしもてなされて当然、だって女の子だから。あなたはどうもてなしてくれるのかしら」という態度ミエミエの合コンにいることほど嫌なことはないわけで、そら明日は泣きながらキャバクラ行くかとなりますわね。
あと、そもそも「友だちがいないことが苦痛で学校に行けない」人がLifeリスナーであることが信じられない。なんで友だちがいないと苦痛なの?人と話す必要がなければ、積読の解消もできるし、溜まってるラジオも聴きたい音楽もいくらでも聴けるじゃないですか。大体ね、誘う方の立場になってみましょうよ。「一人ですら楽しくすごせない奴」を仲間に入れて楽しいわけないじゃないですか。
考えてみれば、私の高校自体の仲間はみんな一人でも楽しそうにしてる奴でした。みんなで宴会をしている横で使おうと思ったら動かないことに気づいたフリーウェアを意地になって徹夜で移植する奴。高校最初の林間学校で一脚を振り回して写真を取りまくっている奴。そんな姿を見て「こいつぁ面白そうだ」と思うから仲間になるわけです。「楽しそうですねー。混ぜてくださいよー」と指くわえて手ぶらでやってくる奴はいらんのです。寸暇をしのんで楽しそうにしている奴だけとしか友だちになりたくありません。これは排除の論理ではありません。みんなそうなるべきだということです。だって、「いや・・・別に特に好きな作家とか好きなミュージシャンとかいません」なんてつまらない人がLifeリスナーなわけないんですから。
というわけで、別に社会問題として「スクールカースト」を番組で取りあげて社会の変化として論じるのはアリだと思いますし、パーソナリティー側は半分が「教師」の目線なので駄目な奴をどうするかという議論になるのもいたしかたないところもあるんですが、それはそれとして、「僕、駄目なんですけど、友だち欲しいです。どうにかしてください」という話には
駄目じゃなくしてから来い
としか言いようがないわけで、それはもう技術ですらない「しつけ」レベルの話ですよ。挨拶できない奴と同じです。
ちなみに、引用した鴻上さんのエッセイの続きでは人間は「もてなすリコウ」「もてなすバカ」「もてなされるリコウ」「もてなされるバカ」に分類されて、バカはしょうがないけど、「もてなされるバカ」はどうしようもないという結論になります。「もてなす」のは最低限の話ってことです。
というわけで、今回のLifeはちょっとレベルが低い話でがっくりでした。
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