日本の「安心」はなぜ消えたのか/山岸俊男
ほぼ日の「やっぱり正直者で行こう」を読んで興味を持ちました。
やはりしっくり来るようなものというのは、うすうすみんなが感じているものの言語化だったりするわけですが、ここで語られているのは、
- 「集団主義」は「安心」を基盤にしている
- 「個人主義」は「信頼」を基盤にしている
という対比であって、その差は道徳によるものではないということです。そして、今、日本は「誰でも周囲の人を知っているという安心に支えられた閉鎖的な社会」から「見知らぬ人をまず信頼するところから出発する都会的な社会」へ移行しているというと言います。
ところが、この差を「昔の日本人は品格があった」などのモラルの問題で語る人が多いけど、それは単に社会への適用の差であって、その人がいい人か悪い人かということとは何の関係もないんだよということを、心理学の実験を交えて書いてあります。
それにしても、心理学の実験というのは不思議なものですね。どんなにその結果が意外であったとしても、実験対象は自分(が持っているものと同じ人間)の心なので、なんとなく自分の心の中で検証できてしまうような気がしてしまいます。おそらく科学的には全然正しくないんだと思いますけど。
この説明を通して、いじめの問題、日本人らしさ(滅私奉公、集団主義など)の問題、相次ぐ企業の不正の問題、KY(空気を読む・読まない)の問題について分析していきます。ひとつひとつの話は納得できるし、あえて言うならば「当たり前の話」に見えなくもないんですが、ではこれを前提に社会システムができている必要があるというレベルになると、うっと詰まってしまうものがあります。
そして、最後に「モラルハザード」の話になります。今の日本ではこの「安心社会」と「信頼社会」の二つの相反するモラルが至るところでせめぎ合っています。自分の所属する集団を守る倫理か、それを越えた社会を支える倫理か。この二つは相反するのだという認識を持っていないと、常に都合のよいように二つの倫理を使い分けて、結果としてモラルも何も無くなってしまうのではないかという危惧を提示してます。うーむ、ここまで明確には認識してなかったなあ
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