ホモ・デウス/ユヴァル・ノア・ハラリ

ベストセラー「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ先生の「ホモ・デウス」が売れてます。どういうわけか、会社で公開読書会なんて開かれたりしてます。最近、うちの会社、ちょっと変。

「サピエンス全史」は切り口が面白いものの、基本的には歴史の本でした。その「サピエンス全史」が切り取った歴史観の元に、人類の未来を見通すのが本作「ホモ・デウス」です。こっちはかなり過激な書物です。

さて、この本、ちょっと見通しが悪いです。なぜかというと、2つのことが主張されているからです。2つは密接に関連しているのですが、私にはあくまで2つのことのように思えます。

1つ目は、この本の本題に入る前の1章(この本は第1部が2章から始まります)で語られます。

人類は、長らく「飢餓」「疫病」「戦争」の3つの解決不可能な問題で苦しめられ、神に祈ってきました。ところが、ふと後ろを振り返ってみると、この3つは解決不可能ではなくなってます。現代において人が飢えて死ぬのは国際紛争や内政の致命的な誤りのような間違ったことが起きているからです。現代において疫病が流行して人がバタバタ死ぬのは封じ込めに失敗したからで、これも誤りが起きたことを意味して、誰かが責められます。戦争は今や際限なく拡大したら地球が滅びるレベルの問題なので、各国は協調してその発生を制御しています。

というわけで、人類は自らの生存を脅かす問題を解決できる目処がついてしまったので、次なる困難に立ち向かっています。これは好むと好まざるとに関わらない人類の性のようなものなので、止められません。そして、ハラリ先生の見るところ、人間は「死ななくて、幸せになって、神のようなものになる」ことを目指すそうです。そして、それらは今のところちょっと目処はついていないけども、テクノロジーがそれを可能にするターゲットに入っているように思えます。そのようにアップグレードされた人間は、もはやホモ・サピエンスではなく「ホモ・デウス」と呼ぶべきだと思えるというのが、1つ目の話です。これが、タイトルの意味です。

さて、この主張を前置きとしてから、本書は2つ目の主張についてのながーい説明に入ります。様々なトピックが語られ、それらが全部面白いんでわっくわくしながら読めばいいんですが、お話の流れを見失ってしまった人、あるいは、こんな長い本、読んでいられんわという人のために、超かいつまんで話の流れを説明すると、こんな感じです。

まず、ホモ・サピエンスと呼ばれる猿が歴史に登場してから数万年後、今から7万年前に突如として世界の支配者になるための資質を身につけます。それを、ハラリ先生は「認知革命」と呼んでます。「サピエンス全史」を読んだ方にはお馴染みですが、あの話がもっかい出てきます。

どーゆーことかと言いますと、サピエンスはなぜか突如として群れを拡大する方法を手にしたんですね。それが「宗教」の発明です。いや、発明というか、進化ですね。自分の群れ以外の同族と共通のイメージとか物語を共有することにより、同じ目的のために行動できるようになったんです。そういう能力を今のサピエンスは生まれながらにして持っている。それが、ネアンデルタールや他の高い知能を持っている動物と、サピエンスの違いになりました。なにしろ、同じファラオを神と崇めることにより、車輪も発明していないのにピラミッドを作ることができるようになったんです。これにより、サピエンスは他の動物に比べて圧倒的な力を手にして、世界中に広まりました。農耕の発明や、文明の芽吹き、産業革命などのイベントよりもっと昔に、サピエンスは決定的な力を手にしたわけです。

このように宗教は、サピエンスの力の源泉です。もちろん、ここでいう宗教はかなり広い意味です。私たちが帰属する集団の一員であることを理由として、理屈を抜きに善悪や正誤の判断をしていることがあれば、それはすべて宗教です。そういう価値判断を生来のものとして受け入れることができ、そのために自己の命を犠牲にすることもできるということが、サピエンスのサピエンスたる所以です。そして、有史以来、紙に書いた聖典を持つ宗教によってサピエンスがその集団を維持し、活動してきた時代がかなりあったわけです。聖書とか、コーランとか、お経とかね。

ところが、科学技術の発展により、神の存在は危うくなります。どうも人類は神が作ったんじゃなくて猿から分かれてきたみたいだし、聖書が書かれたのは神がそれを記したっていう伝承より何百年も後みたいだし、神の教えをどう解釈しても免罪符では救われなさそうだし。というわけで、ルネサンス以降、誰かが「神は死んだ」とか言ったり言わなかったりして何百年か経ち、それが全員ではないからトランプが大統領になったりしているものの、「どうも神様はいないっぽい」ということがサピエンスのコンセンサスになりました。

となると、それに神に変わる何かが善悪や正義についての価値判断をする必要があります。国家主義や帝国主義、資本主義、社会主義、共産主義などなどいろんな宗教がその地位を占めてきたわけですが、現在の流行は自由主義。またの名を人間至上主義です。

人間は個人として自由意志を持ち、己の幸せを追求する権利を持つ。従って、自分が幸せになれることが良いもの。それを阻害するのは良くないもの。ただし、個人の欲求がぶつかるときには、その調整が必要。例えば、男同士がイチャイチャしてる。キリスト教の神が健在であれば、これは聖書にダメって書いているからダメなこと。ところが、人間至上主義では、「彼らがそれで幸せで、誰の幸せも妨げていないのなら邪魔しちゃだめでしょ」が価値判断となります。もちろん、人類が衰退して男女が5人ずつしか生き残っていないというシチュエーションなら「いいから女とセックスしろ」ということになるかもしれないわけで、公共というものは存在はしているわけだけども、それが最優先ではない。そこで「生産性が」とか言い出すと社会的に殺されるという世界を我々はいま生きていて、特に疑問にも思ってません。で、自由意志を持たないもの、例えば人類以外の生命体とか、国家、企業などの法人格よりも、自由意志を持つ個人が尊重されるというのが人間「至上」主義ということの意味です。我々が家畜をヒドい扱いにしている根拠もここにあると。

ところが、科学技術が神の存在を疑問視したのと同じように、科学技術、ことに最近の脳神経科学や心理学、計算機科学の発展は、「自由意志」の存在と価値をも疑問視するようになり始めました。

例えばイーグルマンの「意識は傍観者である」(文庫版のタイトルは「あなたの知らない脳」)はこの辺りを詳しく伝えているスリリングな本です。受動意識仮説と呼ばれますが、私たちは本能的に行動したことをその後で意識的にしたと自分自身を騙すようなことをします。あるいは、人間の行動や情動は並行プロセスですが、それをコントロールする「メインプロセス」が存在すればそれをその人の「自由意志」と呼べるかもしれませんが、どうもそういうものでもないようです。考えてみれば、そのようなモノシリックな構造で素早い行動を取るのは非効率ですものね。ということは、その集合体を「自由意志」と捉えることは可能なのでしょうか。

あるいは、これはちょっと古い説(1970年代に書かれた本です)なのですが、ジェインズの「神々の沈黙」という本があります。この本でジェインズは「二分心」というものを提唱していて、今から3000年ぐらい前までは人類には意識がなかったと言ってます。意識がないと言っても、「意識不明の重体」というような時に使う意識がないということじゃなくて、自意識がないってことです。自分の情動や感情、思考を自分自身のものと捉えていなかったのではないか、つまり「自分」という概念そのものが無かったのではないかということです。これを古代文学(ホメロスとか)を研究することにより思いついちゃったんですね。

古代人は内なる情動を自分とは別の人格だと捉えていたため、古代の文学には「私は怒った」という表現がなく、その代わりに神の存在が身近で、その声を常に捉えていた。つまり、「あいつに騙されて、腹が立ったので殺した」ではなく「あいつは騙しを行った。そこで神は罰せよと私に告げた。そこであいつを殺した」という思考プロセスになっていると。で、そもそもこれは人類の通常の生理学的なプロセスだったんだけども、二つの人格、その原因は右脳と左脳の相同部位なのではないかと考えているんですが、それを統合して扱うことができるという肉体的な変化が人類に起こります。統合された自意識を持つことが生存に有利だったために、3000年経った現代では二分心を持つ人はものすごく少数派になり(シャーマンとか巫女みたいな人は二分心を持ったままの人と考えられます)、つまり人類は新しい形質を備え、進化したという説です。これ、誰も何も証明していないただの説なんですが、あまりに面白いのでみんな気になっている・・・みたいな扱いらしいです。

で、まあ、自意識なんてその程度のもので、サピエンスが効率的に行動するための機能の1つに過ぎず、統合された人格とか、個々人の自由意志なんて仮想的だけ存在するものなんじゃないの、というのが現在の科学の説明するところなわけです。あるいは、人間の幸せなんて、つまるところ脳内に良い感じの化学物質があるっていうことに過ぎないよなんてことは、みんな大好きグレッグ・イーガンの初期作品で散々扱われていること。となると、自由意志と個人の幸せに最も大きな価値観を持つ人間至上主義は、その中心概念を否定されることによって衰退していくのは仕方が無いことです。

読書会でも、人間至上主義、つまりヒューマニズムを否定することは是か非かみたいなテーマが語られて、割と保守的な立場を取る人が多かったみたいです。ところが、人間至上主義の世界から「神至上主義」と言っても良いような中世ヨーロッパみたいな世界を眺めると「いや、社会的機能があることは認めるけども、神なんてあるんだかないんだかよくわからないようなものを価値判断の基準にすると、いろいろと不都合が起きるに決まってるじゃんよ」と思うわけで、どう考えても未来の人類から人間至上主義の世界を眺めたらイケてないに決まってます。デカルト、ベーコン以降の近代哲学がずっと合理的思考や科学的現実と神の折り合いを必死こいて付けてきて、最終的には「いらんだろ、神」というところまで行く歴史をみるにつけ、人間至上主義の行く末も、恐らくは同じようなことになります。「えええ、そんな個人としての人間が尊重されない世界とか、ディストピアじゃん」という暗い気持ちになるのもわからんでもないんですが、「神様が実在しないとか、そんな世の中で生きている価値あるの・・・」と絶望する人に感情移入できないだろうし、つい100年前はバリバリの全体主義国家だった日本人が何言っての的な話ではあるわけです。

さて、問題は人間至上主義の次の宗教はなんだべさ・・・というのがこの本の最後の章になりますが、それはズバリ「データ教」です。ちょっと前まではAIは人間を超えないと思われてました。なぜなら、AIは「意識」を扱えないから。「意識」がない知性では人間には敵わないんじゃないかと思われていたわけです。ところが、どうもそんなことないぞと。つか、人間の「意識」の存在の方が怪しいぞと。意識抜きの知性がゴリゴリ発展して、アルゴリズムとデータで人類総体の幸せを実現してしまうのなら、それが良いんではないか。

ちゅか、人間の活動も、社会も経済も、森羅万象、アルゴリズムによるデータ処理なんだから、それが上手く処理出来ていればそれが善だろう。社会主義に資本主義が勝ったのは、資本主義が人間の個々人の幸せや自由に紐づいていて優れた思想だったからではなく、単に効率的な処理プロセスでうまく全体を最適化できたからだろう・・・という価値判断に基づくのがデータ教です。そして、そのためにはすべての情報はオープンになって誰しもが利用できなくてはならないというのが、その教義です。私は自由で幸せだと内的に認識するのではなく、「私は自由。そして幸せ」とSNSにつぶやいてデータフローの一部になり、世界と一体化することが善ということです。

ピンときませんか。きませんね。うん、まあ我々は旧人類ですからね(笑)。ただ、今私は現実にブログ記事を書いて、「本を読んで感想を日記帳に付けるよりも、ブログに書いてオープンにすることの方が、自分にとっても、世の中に対しても良い行動だ」と漠然と思っているわけですよ。その理由はいろいろあるんですけども、総じて言えば「なんか、世の中そういうことになってきてるらしいよ」ってことに過ぎません。うーん、確かにデータ教の信者かもしれん。

そして、このデータ教、データ至上主義の世界は個人を軽んじます。人類はデータとアルゴリズムに基づいて、ベストな選択と幸せを与えられてまどろんだまま家畜になって行きかねない。ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、データ至上主義はホモサピエンスにしかねません。

いや、これまでの宗教も、ファラオが、法王が、資本家が、独裁者がしてきたことを考えるとデータ至上主義がすっごい悪い未来かはなかなかなんとも言えないわけです。人間至上主義の世界で破壊された地球環境を、データ至上主義が取り戻したとしたら?。そして、そもそも好むと好まざるとに関わらず、データ教に従わないと生きていけない世界は来てしまうかもしれません。個人をないがしろにすることは良くないなあと思いながら、そうじゃないと競争に勝てないもんなあとGPS付きのスマホを営業部員に配って行動を収集し、アルゴリズムで最適化しようとしている経営者を責められるんかいという話です。

さて、そんな世の中きてますねーという観測と思考の末に、ハラリ先生はこの新しい宗教の元での社会や政治や日常生活はどーなんでしょうね。考えてみてね、と言って2つ目の話が終わり、この本も終わりです。あれ、ホモ・デウスどこいった。

でも、まあ、繋がってますわな。データ教の世界で、ホモ・デウスとホモ・サピエンスが共存することになるわけですが・・・一方がもう一方を支配するというような単純な世界でもないですよね。ホモ・デウスの方がデータ教の世界に最適化された種になるということは、えーっと・・・うらやましくない感じは拭えないぞ、となりますし。うーん、それぞれ2つが難しいテーマであるだけでなく、関連まで考えたらだいぶグラグラくる話だな、これは。

というわけで、メインのお話もかなりスリリングで危険思想ですが、枝葉の話もものすごく豊富で面白いので是非読んでみてください。話がモリモリに突っ込まれまくっているんで、今、何の話なのかわかりづらいところもあります。章ごとに整理してくれるので読みづらくはないんですが、見失うことがないとも言えないです。なので、今私が書いたメインストーリーラインを飲み込んで、そっちに行くのねーと思いながら読むといいかもしれないです。


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Clean Architecture/Robert C. Martin

アンクル・ボブの「Clean」シリーズ第3弾。「クリーン・アーキテクチャ」については、 ずいぶん前に記事が書かれていて、ググるとそれなりにたくさんの言及があります。

私はこれ、知らなかったです。というか、もしかしたら絵を見たことぐらいはあったのかもしれないですが、この絵を見てもここに何か自分の認識を改めるようなエッセンスがあるかどうかって全然わからないので、特に興味を惹かれなかったんだと思います。

で、この本の結論としては、この記事に出ているこの同心円の図がゴールよってことなんですが、そこに至るまでの道のりが丁寧にきっちり書いてあるので、なんかすごく楽しく、納得もしました。

Clean_architecture_2 そもそもこれが同心円になっている理由なんですが、恐らくは古典的なWebの3層モデルとか、MVCアーキテクチャみたいなものがあったとして、その両端、つまりGUIとDBがいずれも最も外側のレイヤーに来るよというようなイメージから来ているんだと思います。

GUIもDBもI/Oなんだから、それが一番下層であり、上から下への1次元のレイヤー構造で書き表すことももちろんできると思うんですが、わざわざ同心円にしているのはその対比のせいですよね。で、この一番外側GUIやDBが来るのはいいんですが、フレームワークも実装の詳細なんだから、一番外にいるべきだと。むしろ、そうさせないフレームワーク(本書の中では「結婚を迫る」というような言われ方をしますが)はよろしくないと。

それらがぜーんぶ一番外の層に来た上での、上の図のCtrlの中を3つのレイヤーにするぜという話で、じゃあ、そこにアプリケーションがどんなビジネスを体現するかに依らないソフトウエアアーキテクチャとしての3つのレイヤーがあるんですよと言われると、「ほう、それはちょっとすぐには思いつかないっすな」って感じじゃないですか。

で、一番内側はエンティティ。ぱっと考えるとエンティティってデータのことなんで一番内側もデータで、一番外側もデータ。どーすんのって思います。

もちろん、ボブおじさんのいうエンティティは、最も高次元のビジネスルールとそれを体現するデータ構造のことなので、RDBのスキーマ構造とは違うもの。つまり、Railsのようにアプリケーション設計において最も根源的なものとしてのビジネスルールとデータを実装の詳細に過ぎないRDBのスキーマを使って表現してしまうようなアーキテクチャを強いるフレームワークは一番よろしくないものってことになります。

よろしくないとどうなるかというと、変更と保守とデプロイが難しくなるよと。ボブおじさんのいうアーキテクチャの役割は、それらに寄与するため(だけ)なので、逆にRailsはそれと何をトレードオフしたのかって話です。ま、そう言われればそうかな。

というわけで、(本書でももちろん言及されているとおり)このアーキテクチャはコストが高いです。あの同心円ではさっぱりイメージがつかめないと思いますが、本書で示されている典型的なJavaで構築されたWeb+DBシステムの構造はこうなります。

Clean_architecture2_2

かなーりリッチ。

<I>って書かれているのはInterfaceで、なんでこんなにやたら出てくるかと言えば、下位のレイヤーを上位のレイヤーは参照できないから。

例えば、DBアクセスで言えば「こんな構造のオブジェクトにデータ詰めてくれや」とユースケース層がData Access Interfaceを定義し、データアクセスをするコンポーネントがそれを実装して、DBから取ったデータを詰めて返すと。つまり、上位レイヤーをビルドするときに、下位のレイヤーをimportしないよと。そう出来て初めて、下位のレイヤーへの依存がなくなるわけです。

この方法を「依存関係逆転の原則」(DIP)と呼んでいて、この本を通じて、ひたすら何度も出てきます。要するに、DIPのDはDI(依存性注入)のDなわけです。SpringみたいなDIコンテナはお馴染みだし、仕組みも使い方も理解しているつもりですが、私はこのDIPという考え方を理解してはじめて存在意義と、ここでなんで"Dependency"という単語が使われているのか理解しました。はー、なるほどね。

で、とにかくモジュール(ソースファイルの単位ぐらいの意味)レベルでも、コンポーネントレベルでも、アーキテクチャを構成するレイヤーレベルでもDIP、DIP、DIPと何度も何度も出てきます。

そして、考えてみれば今こさえてるシステムでも全然できてないですわ。コントロールレイヤーとビジネスルールを形作るロジックのレイヤーとデータアクセスをするレイヤーとちゃんとレイヤー分割はしているけどDIPはまるっきり出来てないです。

しまいにはボブおじさんは「OOPの存在意義は、ポリモーフィズムを使ってDIPが簡単に実装できることだけだ」ぐらいのことを言い出します。でもまあ確かにコンポーネントを正しく分離するには依存関係がちゃんとしている必要があって、単なるユーティリティクラス以上のものをちゃんと交換可能にするためには、DIPされてないとダメだというのはまったくもってその通りです。

ただ、じゃあ本当にこの通りやるのか、こうならないフレームワークはだめなんかと言えば、それはケース・バイ・ケースってことになります。なんせこのアーキテクチャはコストが高いので。そこでバランスを取って何がベストか見極めるのがアーキテクトの仕事だし、そのベストはアプリケーションのライフステージによって変わるので、アーキテクトは常にコードを書きながら(このレベルで言うならば、コード書かないアーキテクトはあり得ない)、常に見極めていかなきゃならんわけです。

というわけで、ものすごく示唆に富み、なおかつ、読んでいて楽しい(ボブおじさんの昔話もいろいろ聞けるし)本です。そして、特にクラスを分割すべきかどうか、モジュールをどうまとめたら良いのかというレベルの設計方針に悩みを持っている人にお勧め。そのレベルの設計方針が積み上がって、最終的にはクリーン・アーキテクチャへたどり着くことになるからです。

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スクラム現場ガイド -スクラムを始めてみたけどうまくいかない時に読む本-/Mitch Lacey

すでにテスト駆動開発(TDD)と並んで常識というレベルにまで普及したスクラム。少なくとも、思想的には普及しましたよね。

どのぐらい実践されているのかとか、どのぐらい成功裏にプロジェクトが完了しているのかとかは良くわかりませんけど、2018年にシステム開発のプロジェクトをしようとするならば、まず、スクラムが開発手法として選択肢に上がらないことはないでしょう。

とはいえ、です。私がスクラムマスターの研修を受けて思ったことは、「スクラムがきちんと出来るメンバーがそろったならば、スクラムじゃなくたってプロジェクトは上手くいくだろう」ということでした。それまでの開発手法は前提として、それなりの能力を持った開発者やリーダーが定められたプロセスをきちんと実行できるならば、プロジェクトはうまく進むのだとしていました。そのため、プロジェクトにトラブルが生じたら「何が出来ていないのか」ということがチェックされました。

で、よくよく考えてみるとそのプロセスというのは、「ちゃんとやる」ことがすごく難しいものでした。例えば、「要件はすべて明確にされる必要がある」とか「リスクは網羅的に把握されなくてはならない」とか。で、トラブったら「漏れてた」「網羅性に問題があった」と言われるわけですが、いや、「すべて」とか「網羅」とか、普通に無理でしょう。無理だったわけですよ、後から言うのは何とでも出来るけども。

それがスクラムになると、「プロジェクトを進める上で障害が必ずあります。チームはそれをみんなで解決しなくてはいけません」「チームには必ず改善すべき点があります。毎スプリント何かを改善していくことによりチームは向上します」となる。「○○をしろ」ではなく「ゴールを達成するために何をするのか考えて、ベストのことをやれ」になる。抽象度が一つ上がっていて、そのレベルでどう行動するのかのルールが決められたフレームワークがスクラムなので求められていることは難しいわけ。だから、開発者にとって魅力的なんだけども。

そんなスクラムなので、「こういう場合はどうしたらいいの?」というケースはけっこうあると思います。もちろん、スクラム自体はそれに答えてくれないケースも多いんだけど、そのようなケーススタディについていろいろ書いてあるのが、この本です。物語仕立てのケーススタディを読むのがけっこう楽しい。

こんなケースについて、ヒントが得られます。

  • プロジェクトを進めるのに必要なスキルを持つメンバーが集められなかった
  • まだ何も始めてないのにいつ出来るか報告しろと言われた
  • チームでいちばんのリーダーと、いちばん仕様を把握している人と、最も優秀なプログラマが同一人物なので、3つのロールを兼ねた
  • TDDや継続的デリバリーやペアプログラミングはスクラムのプラクティスではないのでやらない
  • 毎日デイリースクラムに遅刻する奴がいて、メンバーがキレた
  • 4週間のスプリントでスプリントバックログを消化しきれないので、5週間に伸ばしたい
  • チームの状態が悪く仕事が終わらないから、レトロスペクティヴをパスしたい
  • チームのスタープレイヤーが異動になった。それも、今日。
  • オフショア先の開発者をチームに入れろと言われた
  • プロジェクトをはじめたいが、プロダクトバックログが数百あって、スプリント1でどれをやればいいか決められない

まあ、あるあるっすなー。

というわけで、スクラムをやり始めたら直面するであろうあるあるについていろいろと検討している本です。具体的な手法や、思考のツールも満載ですし、ケーススタディを通じて「スクラムっぽい考え方」を理解できるというのも良い。語り口も軽やかで読みやすいです。良書ですねー。

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人間をお休みしてヤギになってみた結果/トーマス・トウェイツ

その昔、トースターを作るのに鉄鉱石を入手するところから始めるプロジェクトで人々を感心させ、そして呆れさせた彼の新しいプロジェクトが届きました。知らない人は、彼のTEDを見れば10分でおおよそ理解できます。

いや、すいません。前作の「ゼロからトースターを作ってみた結果」の方は読んでないんですけど。面白い試みだと思いましたが、1つずつのトピックとしては、まあ、だいたいは知ってるかなと思ったので。

このトーマス・トウェイツさんは、一言で言えば現代芸術家です。彼が研究者やノンフィクション作家だったなら、例えば「トースターはすごく安く買えるが、それは21世紀の文明ありきで、それなしに作るとしたらどうなるのか」ということを調べたら、それについて本を書けば仕事は完了です。数年前に話題になった「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」はそういう本です。しかし、彼は芸術家なのでモノを作らないと意味がありません。

言うなれば、明和電機さんと同じカテゴリーの人ですね。ある思想やテーゼをマシーンとして形にして、人を感心させたり、笑わせたり、呆れさせたりするのが、明和電機。絵画・彫刻に限りませんが、何らかの造形物やパフォーマンスの形まで作り上げるのが、彼らの仕事です。あのトロけたトースターは博物館入りしたそうですよ。

しかしながら、現代芸術家の生活はそんなに楽ではありません。学生時代にトースタープロジェクトがヒットしたこともあって、デザイナーとしてひとまず食うには困らないだけの仕事はもらえているものの、定職もなく、姪っ子の犬を散歩させながら通勤ラッシュの人々をカフェから眺める33歳の男。このままでいいのだろうか。将来が不安だ。この苦しみから逃れたい。

「そうだ、人間をお休みしよう。動物になろう」

いやいやいや、何言ってんのトーマス。しかし、新しいプロジェクトを思いついちゃったから企画書書いてみます。「四足歩行を可能にする外骨格を作成し、草食を可能にする人工胃腸をつくり、脳内の記憶中枢と言語中枢をカットして、<ゾウ>になってアルプスを越える」って、そんなプロジェクトに誰が・・・なんと医学研究支援団体から資金提供が。やるんですか。書いてあることのどれ1つ取っても第1線級の研究テーマだと思いますが・・・。

しかし、そこは芸術家ですからね。やるしかない。芸術家だから、そこに科学的な正しさや新規性、検証可能性などは必要ない。でも、実際に自分でやらないと芸術にはならないわけです。

というわけで、到達しているポイントが表紙の写真です。だいぶ仲良くなってます(笑)。

まあ、申請書に書いちゃったからしょーがないってのもありますけど、相当いろいろやってます。章立てを見ると、彼の真剣さがよくわかります。

  1. 思考
  2. 内蔵
  3. ヤギの暮らし

1章でシャーマンに会いにコペンハーゲンに行き(ゾウなんて馴染みない動物じゃなくてヤギになりなよというこの本のコンセプトに関わる助言をもらう)、2章で神経学者に会いに行き(側頭葉に強磁場をかけてもらう)、3章で動物学者兼義足装具士に会いに行き(延長前肢とハイソールを作ってもらう)、4章で草食動物の胃腸の研究者に会いに行き(ヤギの体内微生物を自分に移植するのは絶対やめたほうがいいという助言をもらう)、最後にスイスのヤギ農家のところに行きます。

行った先で全員に「無理だろ」「死ぬなよ」「取り返しの付かないことになりますよ」と言われながらも、死にたくはないのでなんとか妥協点を探り、粘り強くプロジェクトを進めるトーマス。すごいなあ。彼の学際的な知識欲と実行力はホントに素晴らしい。こんな有能な彼がなんでこんな役に立たないことをやっているのかとちょっと残念に思う気持ちがないでもないけれども(笑)、でも、芸術家として世界中の人々を感心させて、そして笑わせているんだからとっても有意義なことです。

もちろん、四つん這いになってヤギと一緒に草喰んでみても、それ自体から得られることはあんまりないわけです。でも、そこまでたどり着くまでの真剣なリサーチは非常にためになります。哲学的でもあり、科学的でもあり、医学的でもあり、ものすごくプラクティカルな学び(ファンドから資金提供されたプロジェクトを変更する、例えば象からヤギに目的を変えるなどというときには、ちゃんと説明しないとヤバいとか。そりゃそうだろ)もあり。思いのほか、ためになっちゃう本です。全編、彼の軽妙なユーモアたっぷりの文章が続き、ゲラゲラ笑いながら楽しめます。オススメです。

トースターの方も読んでみることにしよっと。


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アルテミス/アンディ・ウィアー

処女作「火星の人」でスマッシュヒットを飛ばしたアンディ・ウィアー待望の2作目。待ってました!

「火星の人」はものすごく面白くて、大好きで、何度も読み返した小説です。特に好きなのが、NASA側のチームが、ワトニーがパスファインダーを回収に向かっていると気付くシーン。他にも好きなシーンはたくさんあるけど、パスファインダーがあること自体はフィクションじゃなくて事実だからあれはこの小説のための仕掛けじゃないですよね。それをあのように上手く使うというのは凄いなと、すごく感心しました。

一方の今作「アルテミス」は、ちょっと未来に月面に建設された都市アルテミスが舞台。となると、その架空の都市自体はすべて著者が考えることになります。主人公は様々な問題を月面都市という舞台を活かして立ち向かっていくことになりますが、そこで「そうか、そうくるのか!」と思わせるためには、そこまで舞台をちゃんと説明しておかなければなりません。いろいろな施設、制度、生活習慣、キャラクターなど、基本的に物語で使うものだけを事前に登場させておくことになりますから、そのあたりはとても大変。

で、その大変な世界設定はすごく魅力的。この月面都市がどうやって成立しているのか。なぜナイロビ時間なのか。なぜ通貨単位が重さなのか。ワクワクします。そして、それらがすべてちゃんとストーリーに結びついてます。さすが宇宙オタクなウィアー。素晴らしい。まあ、ただそれゆえの多少の飲み込みづらさはあって、昨今のラノベなどはそれを避けるために異世界に飛ばされても女の子がセーラー服を着ているような世界を平気で作っちゃうわけですけども、いいじゃないですか。こういう迎合しないきちんとした地球外技術も異世界文明もない世界設定。むしろ、嬉しい。異世界も好きだけどね。

一方、キャラクターの方では難しさがあって、今作の主人公は不良の女の子(といっても26歳。アラサー?)。前作では主人公のワトニーを始め、登場人物のほとんどはNASA職員なのでエリートだったわけですが、今作ではアルテミスがちゃんとした政府の管理をされていない西部劇みたいな世界ってこともあって、わりとみんなならずもので開拓者精神に溢れてます。そんななかで主人公のジャスミンちゃんは、敬虔なイスラム教徒のお父さんに反発して家出中(といっても26歳)の貞操観念緩めな元非行少女で、今はポーター兼密輸業。仁義に固いところと、技術者として頭が切れるところは周囲から認められてますが、いつも「くたばれ」を連発して周囲の大人の眉をひそめさせてます。

前作のファンにはどうもこのキャラのウケがよくなかったようですが、まあ、感情移入しにくいですよね、そりゃ。このジャズちゃんが大金持ちにたぶらかされて、犯罪に手を染める辺りまでは確かに読みづらいです。

ところが、その犯罪行為が思わぬことに・・・と、ここからの展開がまあ、面白い。最後はもうえらいことになります。えらいことになるんですが、そんなえらいことになってもあんまり気にしないアルテミスの人々もなんだか可笑しい。最後の200ページは一気に読み切りました。堪能した!

というわけで、前作が好きな方には文句なくオススメ。可愛い女の子が大活躍するライトノベル好きにだって楽しく読めちゃう・・・と思うよ、たぶん!


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横浜駅SF/柞刈湯葉

日本SF大賞の候補作が発表になりましたけど、どれも読んでませんでした。これはイカン。

というわけで、今年話題になったといえば、これかなってことで「横浜駅SF」を買ってきました。読みました。これは面白い。

「日本で初めての鉄道駅として生まれて以来、ずーっと工事をしている横浜駅は、このままずっと新陳代謝として拡張・成長し、日本を飲み込むのではないか」という思いつきから、「日本中が横浜駅に飲み込まれた世界」を妄想。「横浜駅ディストピア」世界観をしゃくしゃくと組み上げてしまうSF的教養の高さはお見事で、お話自体も「そんな世界での日常系」にはしないで、ちゃんとこの世界の終焉を描こうとするところもすっごく好印象。やー、ご立派です。何だろうね、SFファンがSFファンを喜ばすために「こういうのが書きたい」って思うタイプの作品です。

もっとも、それが故にかなり内輪ウケな雰囲気もあって、各章のタイトルが有名SF作品のもじりだったりするところに象徴されますけど、SFファンじゃないと面白さは2割減ってところもあるだろうし、「SUICA生体認証システムを体に埋め込んでない人はエキナカから自動改札によって追い出される。ただし、6歳未満は対象外」とか「デフレが進行した結果、通貨単位はミリエンに移行。SUICA生体認証システムを体に入れるには、50万ミリエンという大金が必要(つまり、未だにSUICAのデポジットは500円なのねw)」なんてところのネタの面白がり方がすごくSFファンっぽいので、普通の人には「なんじゃこりゃ」ってなる可能性もなくはないかな。

ともかく、戦争とそれによる技術の暴走によりロストテクノロジーしたディストピアって面白い設定ですね。読んでいるとどんどんこの世界に何があったのかおぼろげにわかってくる辺り、貴志祐介さんの「新世界より」を読んでいるような楽しさがありました。うん、「新世界より」からダークを抜いて、バカを足したような感じです(笑)。

SFファンの与太話が最高に盛り上がったような世界観で、きっちりお話を簡潔させた手腕が素晴らしいし、あとがきを読むだけでこの著者のセンスの良さは間違いないわけで、こりゃ、楽しみな人が現れたものですな。おすすめです。

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ヤキトリ1 一銭五厘の軌道降下/カルロ・ゼン

「幼女戦記」のカルロ・ゼンが早川へやってきた!

評判はなかなか良いですよね、「幼女戦記」。でも、無駄に狙ったタイトルと、無駄にでかい判型でエンタブレインから出てるってことで敬遠してまた。アニメも1話は観たんだけど、これ、主役を幼女にして転生ものにしてる意味、ないよね。書きたいのはえげつない戦記物ってことよね・・・という感想で、続きは観ませんでした。好みじゃないんだよなー。

で、そのカルロ・ゼンさんがハヤカワJAから新しいシリーズを出すということで、こっちの方が読みやすそうかなと思い、買ってみました。

うん、面白かったです。

まず、世界観がいいですね。宇宙人がやってきて地球は制圧されちゃうんだけど、やってきた宇宙人の方は、あんまり地球に興味が無い。なんか知的生命体はいるみたいだけど惑星ワイドの政府組織はないレベルの発展しかしてないから貿易相手にもなりゃしないし、別段、資源があるわけでもないし、まあ、管理しとく?ぐらいの感じ。一方の地球側は衝撃もいろいろあって文明が崩壊しかかってます。で、宇宙人が他国と戦争するときに地球人の貧しい連中を集めて、即席栽培して投入するんだけど、まあ、「組み立てる必要のないドローン」ぐらいの認識でバカバカと投入するので、死ぬ死ぬ。バンバン消耗する。宇宙人サイドはそれでもまあ、別に安いからいいかなと思っているんだけど、もうすこしどうにかなんないかなとも考えている・・・といった状況。

表紙の主人公は食い詰めたあげくにその傭兵部隊に雇われた人なんですが、実は雇った側に思惑が・・・というのが1巻の内容です。

お話は基本、この新兵くんの視点で展開するんですが、管理者(地球人)の視点と、スポンサー(宇宙人)の視点もちょいちょい挟まれて、割といろいろな思惑で物事が動いていることがわかります。凝ってる。

まあ、もの凄く画期的な設定かというとそんなこともないですけど、いろいろと考えられている感じで楽しめるし、基本は新兵がシゴかれて、徐々に強くなっていって・・・という王道の「部活もの」感もあるし、チームのメンバーもいがみ合いながら徐々にチームとしてまとまっていく感じも楽しいです。

あとは、ヤキトリ、調理師、キッチン、大満足といった用語の使い方が面白かったり、なぜかこの世界ではマクドナルドが至高の食べ物の代表として扱われるのがおかしかったり、いろいろと楽しませてくれるワザを持った著者だなあと感じました。思ったよりも技巧派?

しかし、1巻は結局、実戦にでないまま終わっちゃうんだけど、2巻はどうなるのかなあ。宇宙人の本国配属になっちゃったから、もっと宇宙人サイドの状況が書かれるのかも。楽しみ。やー、これなら「幼女戦記」も読んでみようかなー。


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あとは野となれ大和撫子/宮内 悠介

デビュー作「盤上の夜」でSFの賞を取って出てきたことから、勝手にSF作家と認識して応援している宮内悠介さんの、直木賞候補作「あとは野となれ大和撫子」です。

旧ソ連の中央アジアの国、アラルスタン(※架空の国です)。大国の思惑に揺さぶられながらも独立を維持してきたこの国の、現大統領が暗殺される。この機に乗じて周辺の国や組織が政体を乗っ取ろうと企む。政治家達は国を捨てて逃げていった。かつての後宮では、戦乱やテロで身寄りをなくした女性が、国家を支える人材として教育を受けていた。逃げる場所のない彼女たちは、自分たちで国を動かすことにするが・・・

というのがあらすじ。異世界ものっぽくもあり、戦記物っぽくもあり、女子校ものっぽくもあり。要するにラノベっぽい。というか、10年前のラノベブームのときは、このレベルの本がラノベのレーベルからバカスカ出版され、だからこそ本読みが一斉にラノベに注目したわけです。

今はもうラノベに色が付き過ぎちゃって、ラノベで面白いことは出来なくなってしまいました。しかし、面白い本がなくなったわけではなく・・・単価が上がったと(笑)。元に戻っただけかもしれないけども。

というわけで、完全にラノベ感覚で楽しく読めるし、登場人物は女の子も男の子もおっさんもばーちゃんもイカしてるし、痛快に読み終えられて、かつ、国家とか戦争とかそういうものにもちょっと思いを馳せて、いいお話であります。面白かった。

それにしても、これがラノベならここから10巻ぐらいは続くと思うんですけど・・・こんなに愛おしい登場人物たちがわんさかいるのに、続きないの?

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いちばんおいしい家カレーをつくる/水野 仁輔

糸井重里に「カレースター」という肩書きを叙されたことで知られ、日本一カレーを愛している男である水野仁輔さんが、cakesというコラムサイトの主催者であり「もしドラ」を手がけた編集者である加藤貞顕さんに、こう尋ねられたのだそうです。

「そういうややこしい話はいいので、お家で普通の材料でつくれる、一番おいしいレシピってありえるじゃないですか? 水野さん、みんなのおいしいの最大公約数を本当はわかってるんじゃないですか」

ということで、水野さんは持つカレーテクニックを1つのレシピに詰め込んだ究極のご家庭用カレーレシピを開発し、cakesに「ファイナルカレー」の連載を始め、その連載をまとめたのがこの本、「いちばんおいしい家カレーをつくる」です。

この連載では、3つのレシピが紹介されます。まず、究極の「欧風カレー」、そしてルーを使わずにスパイスだけで作る「インドカレー」、そしてその2つのレシピに隠された水野さんのテクニックをいいとこ取りして作られる「ファイナルカレー」です。

これがねー、どれも旨いんですよね。まず、欧風カレーを作った段階で度肝を抜かれるほど旨かった。すりおろした生姜がたっぷり入っていて、蜂蜜で甘みをぐっと強いんですが、カレーからこの2つの味がするとこんなに旨いのかと。でも、考えてみれば牛肉と生姜を甘辛く味付けしたらそれは日本人が好きな味に決まってるじゃないかという気はしますわな。なるほど、欧風カレー(=ジャパニーズカレー)が日本料理だと言われる所以はよくわかります。

そして、インドカレー。スパイスでマリネした鶏肉(焼いたらタンドリーチキンになる状態のもの)を煮込んで作るんですが、ルーでつくるカレーとは全然違うんだけど、これもびっくりするほど旨いんですよ。やったことない人にとっては、「ルーもカレー粉も使わずにカレーを作る」ってかなりハードルが高く聞こえると思うんですが、作業工程自体は単純で、わりとさらっと出来ます。びっくり。で、その工程の中に「味付け」という作業がなく、ぶっちゃけスパイス以外は塩とヨーグルトしか入れない(日本料理のようにダシ+酒+醤油/味噌のようにアミノ酸を重ねていくことがない)ので、マズくなりようがない(焦げたとかはありえるけどもね)のも素晴らしい。

そして、ファイナルカレーときたら・・・ただ、ファイナルカレーの存在意義は、前2つのまったく異なるカレーの工程自体を理解していないとわからないという憎い構成なんですよ。いや、こんな面白い料理の本はひさしぶりです。

という連載が本になり、もちろん買いましたし、実家にも送りつけました。この本は日本の家庭のカレーをまったく変えてしまうポテンシャルを持った恐るべき本ですし、「度を過ぎてるカレー好きが、完全に道を踏み外した結果としてたどり着いてしまった地点」を知るタモリ倶楽部的な楽しみにも溢れていて、読み物としてもかなり面白いです。ともかく、「月に1度は家でカレーを作る」という家庭には、すべからく1冊置いておきたい本。是非とも。

そして、この連載を読んで以来、水野さんの活動が気になりまくり。NHK「趣味どきっ!」も楽しく観ましたし、AIR SPICEから毎月送られてくるスパイスセットも楽しみに待っています。そして、「幻の黒船カレーを追え」も買って読ん・・・だ感想は別に書くことにします。


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ゲーマーズ!/葵せきな

「生徒会の一存」シリーズの葵せきなさんの新シリーズ。出ているのは知ってましたけど、様子見してました。

ちょっと様子見が長すぎたようで、既刊はすでに8巻。今クールにはアニメも始まってます。1話は見ました。何だろうね、この古くさい素敵な演出は。ぴったりだわ(笑)。

というわけで、このシリーズ。「生徒会の一存」はキャラの口を借りたネタトークが魅力で、ゲラゲラ笑って楽しめるものの、バックストーリーが意味不明にシリアスになってノリについていけないというようなところがありましたが、今回は本人達は深刻でも所詮高校生の恋愛模様なのでそんな深刻になることもなく、おバカな会話の応酬と誤解が誤解を生むコントのようなストーリー展開を十二分に楽しめます。1巻からその時に出ていた7巻まで、ゲラゲラ笑いながら一気に読んじゃいました。

いやー、どの子も可愛い(男も含めて^^;)し、「めんどくさいオタクたち」の描写が上手いなあ。この筆者の魅力を出すには、変に奇をてらった設定とか要らないです。いや、それじゃ売れないってのはわかるんですけど。今のラノベ業界で「ゲーマーズ!」なんてタイトルで本を平積みしてもらえるのは「生徒会の一存」の実績あってこそだと思いますしね。でも・・・嫌な言い方すれば、この人って2次創作で一番栄えるというか、「普段はこういうこと言わない○○ってキャラが、こんなこと言い出したら面白い」というようなものを書かせたら日本一ってタイプなんで、安心してゲラゲラ笑えるネタを書いてくれたら嬉しいなと思います。

というか、1巻の人物配置は凄く面白かったと思うんです。けど、主人公達が良い子ばっかりで、途中から人間関係が動かなくなってきていて、7巻はすごくトリッキーなことになっちゃってます。最新刊の8巻はそのお片付けなんですが、無理してやりたかった方向へなんとか持って行けていて、やれやれって感じですか。こういう、「いつまで続けて良いかわからない話」ってのも大変だと思うんですよね。突然「次巻で終わりです」って言われるかもしれないし、あと10冊書かないといけないかもしれないし。ま、とにかく8巻も掛け合い漫才は超面白かったので、大満足です。

しかし、この8巻、校正が・・・。読んでいて、結構な勢いでミスに当たるんですよ。

  • P51 花憐のモノローグで「雨野」と呼び捨てにしてる
  • P162 「サービスをした強要した」→「サービスを強要した」
  • P201「ゲーム部に影響を受けた天道の影響」→「ゲーム同好会に影響を受けた天道の影響」
  • P239「ゲーム同好会五人に、コノハさんが加わって、五人ですね」雨野、算数は大丈夫か。
  • P268「ぐいっと彼の腕に絡みつき・・・」からの6行。「・・・歩き始めるあたし。センパイは・・・並んで歩き始めた。・・・あたしを引きはがしにかかるセンパイ。あたしは・・・隣を歩き始める。センパイは・・・歩き始めた。・・・二人、・・・無言で歩き続ける」何だこの2人、何回歩き始めるんだ?(笑)

たまたまなのかもしれませんけど、こういうのって結局お金のかけ方に依るところもあるんで、やっぱラノベ界厳しいんだろうなと思ったり。担当編集は今頃たぶん落ち込んでると思うので、たくさん売れて増刷がかかって直せたらいいですね(笑)

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