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ケータイのカメラは「報道」なんかじゃない

nacがblogで、「ケータイのカメラであっても報道は成立するし、それは撮影者の意識の問題である。それがなければタダの野次馬だ」と秋葉原殺傷事件のいわゆる「一億総カメラマン状況」について言及しています。

秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界、って本当か。(備忘録)

携帯カメラで現場をとることが非難されるのは

「個別の状況で、とっさの判断を迫られます。選択する行動は、その人の価値観や人生観にもかかわってきます。」

という覚悟や自覚がないまま、ただ「ネタ」としてその場面を消費しようとするからだ。 (残念ながら、覚悟や自覚は目に見えないので誤解される可能性はある)

朝日新聞の上の回答は優等生すぎるかもしれないし、 実際には一種の高揚感や衝動とともにシャッターを切ることだって多いだろう。 でも、この回答のようなことを事後でも自覚するのかどうかが「野次馬」と「報道」の境界なんじゃないか。 ウェブで生中継が始まろうが、携帯カメラで写真を撮ろうが別に境界は融解なんかしてない。

この主張には一貫性があるし、ある種の説得力があります。

しかし、ustにとっさに繋ぐほど自身の行為に自覚的だった人はまだしも、実際にあの場で居合わせて、現場にケータイのカメラを向けた人に働いていた、撮影および公開を正当化する力学はそんなものではなかったんじゃないでしょうか。

カメラ付きケータイとブログが我々にもたらしたのは、「自分の体験を追憶可能なように記録し、選択的に公開する」という、いわゆる"ライフログ"的な感性です。美味しいものを食べる。珍しいものに出会う。そんな日々の出来事を自分がどのように見て、どのように感じたか、それをすべて記録したい。いつでも追体験可能な状態にしたい。この感動を他者と分かち合いたい。それが、可能だという感覚です。

ケータイを向けて撮影ボタンを押すとき、そこに存在するのは「レンズとフィルムを駆使して世界を切り取る芸術」としての写真ではありません。自分の視覚をそのまま固着させたいという動機です。自分が実際見たニューロンへ記録可能なものを、CCDデバイスからシリコンへ記録する。そこに意識的な境界がなくなりつつあります。コンビニで雑誌を立ち読みしていて気になったページ。それをコピー機でコピーするのはためらわれるのに、ケータイで撮影するのに違和感も罪悪感も感じない感覚。「えっ?撮っちゃダメなの?見ていいのに?」。あっけらかんとした「盗撮」の影に隠された感覚は「見て覚えること=ケータイで撮影すること」という、記憶と記録の透過性、感覚器の延長としてのカメラがもたらしているのではないでしょうか。視覚したデータをインプラントを通じて記録するなんてのは、攻殻機動隊的なSFのモチーフとしてありふれたものですが、我々の感覚は、実際それに近いところまでいっているのではないのかと思います。

nacが主張する「報道」は、実はこの感覚とは相容れない「芸術」としての撮影を前提にしていると思います。「報道写真」が語りかけるのは、単なる風景ではなく、ある意志と主張を持って切り取られた「現場」です。しかし、ケータイを持った手を伸ばすときに、その撮影された映像が持つ意味に対する覚悟は、選ばれないままではないでしょうか。あの場でケータイを伸ばした人の頭にあったイメージは、「報道」でも「野次馬根性」でもなく、チャンネルをまわしてたまたまやっていたテレビ番組に対して、慌ててビデオデッキの「録画」ボタンを押す、そんな感覚だったんではないでしょうか。

そして、それをネットで公開するときの感覚にも同じことが言えます。「見てはいけないもの=撮ってはいけないもの」と同じく、「しゃべってはいけないもの=公開してはいけないもの」。ネット上に撮った映像を公開するときにある感覚は、「これは、他人にしゃべってよいものかどうか」という判断に近い。「あまりに残虐で、人に話すのもためらわれる」「犠牲になった人のことを考えると、ぺらぺらと簡単に口に出してはいけないのではないか」というレベルの判断はあるでしょうが、「自分にこれを報じる資格がある」という感覚はおそらくでてこないと思います。

逆に言えば、我々はすでに見られる可能性があるものは撮影されている可能性があり、人から直接話として聞けるものはGoogleに引っかかると思っている必要があります。ある人の視覚や記憶は、視覚されたり記憶されたりした以上、ネットに存在する可能性がある。ライフログ化された社会とはそういう社会のことです。自分の庭のベンチで裸で日光浴していたところを、Google Earthのカメラに撮影され、全世界から参照可能になる。「たまたま通りがかった人に見られるぐらいはかまわないと思ってたけど、撮影は許してない」という主張は奇異には聞こえません。しかし、もう実効的ではない。ヘタをしたら、それはもう人間の意志は介在しないシステムなのかもしれないのです。自分の頭にCCDカメラをつけて、撮影したデータをリアルタイムでWeb上で公開することは可能です。しかし、その行為を規制することが可能なのか。「撮られて公開されて困るものは、私から見えないところにあるべきだ」と主張されたらどうなのか。台風のニュースで傘が壊れてずぶ濡れになった女の子の映像は、被撮影者のチェックが入っているのでしょうか?おそらく、そこに含まれているであろう倫理を、ケータイとyoutubeを持つすべての人に共有させることが可能だと主張できるのか。

もはや、自分の視覚や記憶をネット上にアップロードしようとする人に対して、旧来の意味での何かを広く一般に公開することによる責任や倫理というものを求めようとするのは不可能な世界がやってきた。それが、秋葉原殺傷事件があらわにした「一億総カメラマン状況」という世界だと思っています。

 

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Comments

議論の観点がちょっと違うかもしれませんが。
撮影対象が「人間」かそれ以外の風景や食べ物とかか、で行動、モラルは変えるべきであると思います。 対象が人間であるなら、撮られた人、その関係者がどういう思いをするか、というのを考えるというワンクッションを入れないと。 これは撮影だけじゃなくて言論でも同じだと思いますが。

去年某事件で被害者の関係者としてマスコミの報道姿勢などについては目の当たりにしましたが、やはりちょっとひどいなーと思ったりしました。

今回の事件も、撮られた側がどういう思いかというのを一瞬でも考えられたら、ちょっとは違うと思います。
・・・というのを
http://www.tanteifile.com/newswatch/2008/06/11_01/index2.html
を見て思いました。

Posted by: かに | June 15, 2008 at 09:06 PM

しかし結論がよく見えないんだけど、
「報道はマスコミ等広く一般に公開することによる責任や倫理があるところに任せておくべき」
と言うところが結論なのかな?


とはいえ、マスコミにそんな倫理のありそうなところはあまり無いように見える。
今回の秋葉原の事件でも
・吸殻ポイポイ
・被害者の持ち物からオタクグッツが出てくることを期待
・献花台にハイエナのように群がる
・犯人の「オタ」面ばかりクローズアップ。派遣とかそっちのほうは殆どスルー
などなど

> 「そのためには取材対象からある距離をおいて、冷静に見つめることが必要です」

という意識が欠けてるマス「ゴミ」が多すぎです。

↓のようなことをしてる連中に報道する資格なんてあるとは思えない。
http://www.j-cast.com/2007/12/04014120.html

個人的には、たくさんの人が情報を集めてくれば
恣意的に歪められて報道されることもなくなる
そんないい時代が来てるんだと思ってます。

Posted by: ふみ~ | June 16, 2008 at 01:41 AM

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Tamが先日のエントリーに反応してくれました。ありがとう。 [ケータイのカメラは「報道」なんかじゃない](http://tambourine.cocolog-nifty.com/dengon/2008/06/post_d1c4.html) > nacが主張する「報道」は、実はこの感覚とは相容れない「芸術」としての撮影を前提にしていると思います。「報道写真」が語りかけるのは、単なる風景ではなく、ある意志と主張を持って切り取られた「現場」です。 そうです。 そういったことを思い浮かべながら書き... [Read More]

Tracked on June 17, 2008 at 12:37 AM

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