« ケータイのカメラは「報道」なんかじゃない | Main | 文化系トークラジオLife 6/22のテーマは「秋葉原無差別殺傷事件」 »

撮影と言論の安売りが破壊するもの

昨日の記事にコメントありがとう。大変に難しい問題だと思います。まず、私は善悪の話をしているのではないということはわかっておいてください。テクノロジーが与える我々の認識の変化についての議論です。しかし、この変化を無視した、あるいは、変化に逆らった社会システムや倫理観には問題があると思っています。そういう意味で、最後に「善悪」の話にたどり着いてしまうのは必然かもしれませんが、この文章の結論を「善悪」にはしたくないと思っています。

二つコメントをもらいましたが

かにかにのいう

対象が人間であるなら、撮られた人、その関係者がどういう思いをするか、というのを考えるというワンクッションを入れないと。 これは撮影だけじゃなくて言論でも同じだと思いますが。

と、ふみーのいう

個人的には、たくさんの人が情報を集めてくれば恣意的に歪められて報道されることもなくなる、そんないい時代が来てるんだと思ってます。

を両立させることは困難だというのが、私の考えです

昨日の記事の主張は、我々の視覚とケータイのカメラ、そしてネットはもうすでに地続きだということです。そして、これを倫理で逆行させるのは非常に困難だと思います。

だから、秋葉原の路上であの事件があったときに、ただその場で観ていた人と、自分の観ているものをケータイで撮っている人、それをネットに上げてしまう人の間にクッションは入れられないだろうというのが私の主張です。

もちろん、かにかにのいう「クッション」を持たせることが可能ならば、そのほうがいい。それは教育の役割かもしれない。しかし、そうするのにカメラとブログがあまりにも我々の感覚の上で当たり前になりすぎたし、そのスピードが早すぎる。この当たり前の感覚がなければ、例えばmixiで平然と自分の悪行を語ってしまうなんてあり得ないはずなんです。

そして、あんな事件がありながらその場を素通りしていく人(いっぱいいたはずです)が正しいわけもないし、ふみ~が指摘するようにあの場にテレビカメラだけではなく、無数のカメラがあったことが悪いことばかりでもない。ふみ~が指摘したレベルだけでなく、もっと事件に直結したレベルも有り得ます。もし、この犯人がなにか間違ってうまく逃げおおせたとしたら、あるいは、もし、この犯人に共犯者がいたとしたら、ここで撮られた映像の意味は変わってくるかもしれないのです。

そして、私たちは、例えば「休み返上で親会社に呼び出されて、会見場所に張り付けられて、鬱々とした気持ちでつい煙草に火をつけた」人の人生すら破壊したかもしれないということも忘れてはいけないし、それを防ぐことはもっと難しかっただろうということも指摘しておく必要があると思います。

チープ革命が、我々に「日常的に撮影すること」「情報を共有すること」「なにかを議論すること」を容易にし、報道という地平を脅かしました。しかし、それはやはり、報道ではない。だから、報道と同じレベルの倫理観を期待できないし、逆に、報道の側の質がこちら側へ大きく傾いてしまうことも考えられます。その状況とうまく折り合いをつけていく社会システムも必要ですし、倫理観の修正も行われるはずです。それは社会学者とか哲学者といった人の仕事かもしれませんが、まずは、我々自身が現状認識と、自分を守ることとを考えねばならないと思います。

追記:

同じ空間を共有できていたのか--秋葉原事件の撮影について(佐々木俊尚 ジャーナリストの視点)

ライフログ時代の野次馬とは

 このような当事者性をめぐる撮影行為のトラブルは、今後も続いていくのだろうか。先のことには誰にもわからないが、いずれはこの撮影という行為そ のものが、特殊な行為ではなく、ごく当たり前の生活の中の動作として日常に埋没してしまう日がやってくるかもしれない。

(中略)

 もしこのような時代がやってくれば、そのときには撮影するという行為の不的確さや野次馬問題が語られることはなくなるだろう。……それが良いことなのかどうかは、とりあえず置いておくとしての話なのだが。

CNETの佐々木俊尚さんの記事です。この文全体の趣旨は、マスコミの取材とケータイカメラでの撮影者との間で、前者は「野次馬根性を『公共性」という甘ったるい生クリームでからめとってしまい、むき出しの野次馬根性を覆い隠してくれる役割」があるとしています。つまり、野次馬を批判している人は、自分の野次馬根性の発露を「公共性」と呼んで特定の人に限定することがモラルだと思っているということです。そして、野次馬にならない方法として、「同じ空気を共有すること」という概念を出していますが、正直、その部分はよくわかりません。

しかし、上に引用した最後の節でこの議論は「ライフログ時代」には意味を成さなくなるだろうとしています。この部分はまったく私の記述したことと同じです。私は「いずれ」ではなく、目の前の現実だと感じていますけど。私の興味は、この社会がこのフェイズに入ったときの話であって、現時点でまだまだ生き残っているモラルに基づく善悪はとりあえず、私の議論の範囲外にしたいと考えています。

もちろん、それは事件の当事者ではないから言えることなのですが、当事者でないからこそできる議論があるはずです。もし、私がこの事件で自分の大事な人を失っていたら私は自分の全能をかけて、犯人を八つ裂きにしにいくかもしれない。その時は、誰かが羽交い締めにしてくれると期待はしていますけど。

|
|

« ケータイのカメラは「報道」なんかじゃない | Main | 文化系トークラジオLife 6/22のテーマは「秋葉原無差別殺傷事件」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

この2回面白く読ませて頂きました。
確かに仰るとおりです。う~むって考え込んじゃいました…
流れとしては停めようが無い事ですけど、自分がもし当事者なら勘弁して欲しいですね…
「自由」に付きまとう問題だと感じました。

Posted by: タコチン | June 16, 2008 at 11:32 PM

そこまで世界が変わってしまえばそうなる・・のかもしれません。 でもたんばりんさんのおっしゃる教育については、もっとなんとかせんとと思います。ITどうののレベルじゃなくて、「こうしたらどうなるか」という想像力、リスク管理という意味で。
それが無いと世の中破綻するんじゃないかと。

極論すると「知らなかった」「わからんかった」「そうなるとは思わんかった」という「無知」が罪かどうかと、そいう話になるんかなぁ。。。

Posted by: かに | June 18, 2008 at 12:17 AM

荻上チキさんの「ウェブ炎上」を読んで思ったのですが(http://tambourine.cocolog-nifty.com/dengon/2008/01/post_2dfe.html) 私はネットはすでに旧来の「法とリテラシー」で制御できないものになっているのではないかと思います。なので、教育がどれだけ効果を上げるかには懐疑的です。もちろん、ネットリテラシーに対する教育は重要ですが、それが銀の矢ではないだろう。それは、鎮静剤にしかならないだろうと思います。

むしろ、それ無しに進んだ先で、我々の善悪や倫理観が変化してしまい問題でなくなるというあたりが落としどころになってしまうのではないかと。それはある意味、「破綻」と呼ぶことも出来るのですが・・・

Posted by: Tambourine | June 18, 2008 at 12:39 AM

難しい問題ですよね。
しかしながら、人は一度便利になった道具を手放すことは出来ないわけで、この流れが逆行することは恐らく無さそうですね。

ネットが爆発的に広まったときにも、技術だけが先行して、倫理観はおざなりにされていたがために色々と問題が出ていたのは新しいところで、
携帯は進化したが、人はそのままであるが故の現象でしょう。

たむーが上で書いているように、そのうちこの現象を
誰もなんとも思わなくなる時代がくるのではないかと。
それが「破綻」になるのか、「新しい時代の幕開け」になるのかは
そうなってみないと分からないわけですが。

Posted by: ふみ~ | June 18, 2008 at 11:54 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/47905/41550023

Listed below are links to weblogs that reference 撮影と言論の安売りが破壊するもの:

« ケータイのカメラは「報道」なんかじゃない | Main | 文化系トークラジオLife 6/22のテーマは「秋葉原無差別殺傷事件」 »